崇仏論争で物部尾輿と争った蘇我氏興隆の祖・蘇我稲目

飛鳥時代の人物録

彗星のように登場した謎多き一族・蘇我氏

日本の古代にあたる飛鳥時代に、本来頂点であるはずの天皇をも凌ぐ権勢を振るった豪族がいます。その一族は突如として日本史上に現れると自ら「蘇我」という氏を名乗り、ライバルとなる人物を滅ぼしながら一気に権力の頂点へと駆け上って行きました。

蘇我氏についてわかっていることは非常に少なく、その出自すらも定かではありません。現在の奈良の出身であるという説や大阪出身説、また歴史の表舞台に現れるまでの記述があまりに少ないことから渡来人であったという説もありますが、要するに研究が進んだ現代でも確信の持てる出自の情報はほぼ皆無です。その蘇我一族が歴史の表舞台に現れたのは6世紀、しかも登場した時点でいきなり高い地位を持っていた蘇我稲目(そがのいなめ)から物語は始まります。

飛鳥時代当時の大和政権には、大伴(おおとも)氏や物部(もののべ)氏・葛城(かずらき)氏など、「古事記」の神々を先祖とする氏族が有力な立ち位置を占めていました。蘇我稲目は『日本書紀』という日本の正式な歴史書の中で、登場するやいなや由緒正しい氏族を押しのけて、突然「大臣(おおおみ)」という大和政権の重要職に任命されたことが記されています。

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手っ取り早い出世の王道・天皇の外戚に

蘇我稲目が異例の大出世をした途端、すぐさま2人の娘が欽明天皇の妃として召し出されるという幸運が続きます。娘たちが天皇の子供を産めば次世代の天皇の「おじいちゃん」になれるため、朝廷内で有利を築き一族で重職を固めることすら可能となります。皇帝や王の外戚(がいせき、妃側の一族を指します)が大きな権力を持つ例は古今東西多くあり、平安時代の藤原氏や平氏も同様の方法で朝廷を牛耳っています。つまり天皇の妃を自身の家から出すということは、出世のための特急券を手に入れたも同然ということになります。

wikipedia「蘇我稲目」のページから抜粋

二人の娘は蘇我稲目を始めとした一族の期待に応え、それぞれ後に用明天皇や推古天皇、崇峻天皇となる子供を出産しました。こうして将来性抜群な立場を手に入れた蘇我稲目は、さらに朝廷内での地位を高めるためにライバル排斥に動き出します。

仏教の扱いを巡る物部尾輿との争い

崇仏論争で廃仏派・物部尾輿と対立

蘇我氏の地位を高めた蘇我稲目にとって大きな壁となったのは、大連(おおむらじ)の位を持つ物部尾輿(もののべのおこし)でした。物部氏は初代天皇とされる神武天皇の時代からの有力氏族であり、軍事や地方行政に大きな貢献をした氏族でもあります。物部尾輿は歴史ある氏族ということで、当時中国から伝来してきた仏教には反対の姿勢をとっていました。それに対して蘇我稲目は仏教の普及を推進する立場をとったため、仏教の受け入れを巡って「崇仏論争」が巻き起こっています。

蘇我稲目は「大臣」として財政外交を担当していた、担っていた仕事の性質上比較的大陸の文化や技術を受け入れ易い立場にありました。当時最先端の仏教を認めることで中国との外交もしやすくなるため、自身の役割を果たすにも何かと都合が良かったという背景もあったでしょう。ちなみに後の「乙巳の変」で躍動する中臣鎌足が属する中臣氏も、この時には物部氏同様に仏教を否定する立場をとっていました。

一方、「大連」として軍事や警備を担当する立場にあった物部氏は、仏教信仰への反対を表明していました。日本土着の神々に対する信仰心も当然あったでしょうが、急成長を続ける蘇我一族に抵抗するために神道を利用した側面もあったのではないでしょうか。なにはともあれ日本において仏教を受け入れるべきか否かを巡り、当時の二大有力者が真っ向から対立し火花を散らしました。

崇仏派のプチ勝利と日本最初のお寺

この両者の激しい対立は、欽明天皇の鶴の一声で一旦は決着を迎えることになります。欽明天皇が群臣を集めて仏教を受け入れるかを尋ねると、崇仏派・蘇我稲目と廃仏派・物部尾輿はそれぞれの意見を述べ合い、また互いに対抗派閥の意見を批判し合うという泥沼展開が繰り広げられました。この展開を見た欽明天皇はひとまずこの場を収めようとしたのか、仏教を国教にはできないけど完全否定することはない、というボンヤリした意見で仏教寺院の建立を許可しています。

ここでは崇仏派の完全勝利とはいきませんでしたが、とりあえずではあれど日本での仏教布教が容認された格好となりました。という訳で蘇我稲目は仏像をイソイソと自宅へと持ち帰り、お堂を作り仏像を安置したと言われています。このお堂は残念ながらすぐに焼失しているために現存していませんが、蘇我稲目が作ったお堂こそが日本最初の寺院として伝えられています。

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日本の神々を崇めながらも仏教が求められた理由

欽明天皇が仏教を許可した理由としては、蘇我稲目の意向とは別の事情があり、神道にはない部分を仏教で補う意図があったものと思われます。神道では死や病気といった人にとって避けられないマイナスの出来事を「穢れ」と呼び、触れてはならないものとして遠ざける特徴があります。誤解を恐れずに言うならば、神道は危篤状態に陥った人の絶望的な気持ちや、人が最も恐れる「死」というものに対して、一切のサポートがない宗教と言えるかもしれません。神道はそもそも民間の細かな伝承を繋ぎ合わせて成り立っているため、死後という概念まで発展せず、人の「死」に関連する機能は弱いままなのでしょう。

ですが仏教では宗派にもよりますが、基本的に現世での行いが死後の世界にも影響する、という世界観を持っています。「現世でいい子にしていれば死後も安泰」という世界中の宗教で見られる世界観ではありますが、この考え方がそこら中にあるということは世界中の人々が「死」を恐れ続けた結果なのでしょう。人にとって最も恐ろしく、また避けることのできない「死」を少しでも前向きに捉えるため、宗教という神聖で謎めいた概念が必要だったとも言えます。誰にとっても恐怖の対象であり、また平等に訪れる「死」を忌避の対象としている神道は、やはり宗教というには物足りない部分があり、だからこそ神「道」なのかもしれません。現代日本でも成人式や七五三といったハレの行事は神道式ですが、葬儀など「死」に関する事は仏式が相当な比率を占めています。

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この崇仏論争は蘇我氏VS物部氏、仏教VS神道という対立構造でもありますが、背景には人々が死後の平穏をも保証してくれる宗教を求めていたことがあります。特に危険の少ない生活を送る貴族層の人々にとって、日常的に身近に感じていない分だけ「死」への恐怖は強かったのではないでしょうか。そしてその恐怖を緩和する心の救いとしての仏の教えは、同様の機能を持つ宗教がなかった日本人の心に深く刺さったのではないでしょうか。蘇我稲目にとっては一族の繁栄を賭けた仏教推進だったのかもしれませんが、文化的にも発展してきた時代の需要に仏教がピッタリとハマったとも言えます。

仏教を許可した途端に疫病流行

崇仏論争は決着こそ付かなかったものの、蘇我稲目と仏教にちょっぴり軍配が上がった形でひとまず決着しました。ですが仏教の許可が降りた直後、日本国内で突如として疫病が流行りだすという厄災に見舞われたことで、崇仏派に遅れをとっていた廃仏派が息を吹き返すこととなります。

多くの人々が病に倒れる中、物部尾輿はこの状況を使ってここぞとばかりに反撃、疫病が流行ったのは仏教を信仰したためであるとして批判を開始しました。古代の発想では「政治指導者が間違ったことをする→神様が怒る→災害」という流れは割と一般的な考え方であり、世界史レベルでも頻繁に施政者の不徳が災害の理由にされていたりします。さらに今回の件では崇仏論争で「日本古来の神の扱い」がテーマとなっていたため、「神の怒りが疫病に!」という流れは違和感なく受け入れられたことでしょう。貴族層を含めて甚大な被害が出た疫病の原因とされた仏教は、容認した欽明天皇ですら庇いきれなくなり、逆に物部尾輿の提言を受け入れて仏教弾圧に走り始めました。

仏教排斥の直後に蘇我稲目死去

欽明天皇によって仏教を国から締め出すことが決まって以降、崇仏派の中心として仏教を推進していた蘇我稲目の名は一度たりとも日本書紀に登場しません。物部尾輿はここぞとばかりに廃仏運動を推進し、勢いづいた廃仏派とともに蘇我稲目が作った寺を焼き払い、祀られていた仏像を海に放り投げています。この間も蘇我稲目本人は一切登場していないため、廃仏運動が始まった直後に病死してしまったという説が濃厚になっています。

仏教に対する排斥運動はその後も継続されましたが、当然そんなことでは疫病は治まらず、被害は拡大する一方となっていました。そして蘇我稲目が亡くなったと思われる時期から1年後、欽明天皇も後を追うようにしてこの世を去っています。そしてこちらも記録にはないのですが、廃仏を推進していた物部尾輿もこの時期にふっと姿を消しているため、蘇我稲目や欽明天皇と同時期に亡くなっていたものと思われます。

結局仏教を取り入れようと排斥しようと収まらなかった疫病により、崇仏論争はわだかまりだけを残し、次の世代に勝負が持ち越される形となりました。蘇我氏を継いだのは蘇我馬子、物部氏を継いだのは物部守屋。この二人の世代に入ると崇仏論争がさらに激化、そして蘇我氏と物部氏の権力闘争もより激しさを増しています。

仏教普及を巡る争いは次世代に持ち越しです

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