五大老と違ってコマゴマと働いた五奉行達
豊臣政権における五大老というポジションは、ただ秀吉が自身の死後に豊臣秀頼を支えて欲しい人物を選んだだけですので、実務的な役割を持っていたわけではありません。どちらかと言えば顔役というか現代の日本政府における大臣的な立ち位置であり、「豊臣家」の運営に口出しはしても、個人として決まった役割は持っていませんでした。
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では実際の政権運営は誰がやっていたかといえば、「五奉行」とその部下たち、つまり実務を担当した官僚達になります。石田三成・浅野長政・前田玄以・長束正家・増田長盛の5人はそれぞれ得意な分野を担当し、日本を武力で統一した豊臣政権をガッチリと支え続けました。この人物達は豊臣秀吉が織田家の武将だった時期から面識があったり家臣だったりと、秀吉にとって頼りにしやすいというか、愚痴やら要求やら何でも言いやすい関係だったものと思われます。
そんな優秀な官僚達によって秀吉が考案した政策は実現され、太閤検地やら刀狩り、そして朝鮮出兵など後の時代にも影響を及ぼす業績を成し遂げました。それではこの五奉行と呼ばれる秀吉の意思を遂行する人物達を、一人ずつざっくりとご紹介したいと思います。
江戸時代まで続く石高制の基礎を作った太閤検地についてはこちらからどうぞ。
武断派の恨みを買った西軍の首謀者・石田三成
若くして豊臣秀吉に見出された超優秀官僚
「五奉行」という単語から連想できる人物としては、真っ先にこの石田三成が挙げられるのではないでしょうか。三成は10代の前半から小姓として豊臣秀吉に仕えていますが、秀吉との出会いの場面「三杯の茶」のエピソードはかなり有名だと思います。秀吉が織田家の乗っ取りに成功したあたりから三成は頭角を現し、「堺」奉行になると港湾都市・堺を各地の戦線への物資供給元に作り変え、九州征伐や小田原征伐など豊臣家の遠征をしっかりと下支えしています。
朝鮮出兵を支えるも武断派武将と対立
朝鮮出兵の後半・慶長の役でも三成は総奉行という軍全体の管理を任されており、渡海はせずに北九州で各武将との連絡や後方支援を担当していました。ですが朝鮮半島で戦っている大名達は秀吉のワガママに渋々付き合っているだけであり、家臣を減らすような戦いはできる限り避けたいのが本音だったようです。ということで前線の大名達は戦闘規模の縮小を秀吉に提案しますが、中国制覇を目論む秀吉の逆鱗に触れ、現地で戦う大名の領地が一部没収される事件がありました。この事件で現地大名と秀吉の連絡を繋げていたのが三成ということで、三成は福島正則ら武断派と呼ばれるアクの強い大名達に恨まれることとなりました。
後に秀吉が病没し朝鮮出兵が中断されますが、疲れ切った武断派の怒りは収まることを知らず、石田三成の屋敷が武断派大名達に襲われた襲撃事件に発展しています。この事件は徳川家康の仲裁によってなんとか収まったのですが、ここで武断派大名と徳川家が結びつき、その後に起きた関ヶ原の戦いでも多くの武断派大名が家康の東軍に参戦しました。敗れた西軍の首謀者だった三成は捕縛され、京都に護送された後に六条河原で斬首されています。
朝廷との交渉や宗教問題はお任せ・前田玄以(げんい)
織田家では比較的レアな元僧侶
織田家・豊臣家に仕えた「前田」には有名どころでは前田利家や前田慶次がいますが、彼ら有名人とは全く異なる「前田」として前田玄以という家臣もいたりします。織田信長という人物は仏教を保護しつつも楯突く相手には一切の容赦がなく、大半の期間は仏教勢力との軋轢を抱えていました。そんな織田信長とは言え本音としては対立したくもなかったようで、そういったジレンマを解消するための方策も検討していたものと思われます。という訳で織田信長はわざわざ元僧侶の前田玄以を抜擢登用、信長の嫡男・織田信忠を支える家臣として付けられています。
本能寺の変を生き延びた後に豊臣家臣に
本能寺の変では信忠と共に二条城にいたのですが、信忠の命令で脱出し上手く逃げ切っており、一大事件の現場にいながらも助かった数少ない幸運な人物でもあります。
本能寺の変を切り抜けた玄以は信長の次男・織田信雄に仕え始めますが、ここで「京都所司代」という行政機関の長に任命されました。ところが小牧・長久手の戦いで秀吉と織田信雄が対立、その余波で京都が秀吉の管理下に置かれると、玄以は「京都所司代」のまま今度は秀吉の家臣となっています。その後の玄以は市内の行政だけでなく朝廷との交渉役も担当、また寺社の管理など宗教関連まで幅広い仕事に取り組んでいます。
関ヶ原の戦いで西軍に付くもなぜか生き残る
前田玄以はもともと僧侶あがりということもあり、当初はキリスト教に対して批判的なスタンスをとっていました。ですがキリスト教の教義に魅せられたのか、はたまた仏教僧達の濫行を見すぎてしまったためかは分かりませんが、次第にキリスト教に理解を示すという謎の進展を見せていきます。そして豊臣秀吉がバテレン追放令を出した後もそれは変わらなかったようで、主君に隠れてコッソリとキリスト教徒の保護をしていたりもします。
そんな玄以は関ヶ原の戦いでは石田三成の西軍に参戦していますが、敗戦後には徳川家康からなぜか5万石の領土を与えられ、伊勢亀山藩の藩主になるという幸運に浴しています。西軍に属した大名の大半が取り潰された事実を考えれば、この前田玄以の扱いは割りとあり得ないレベルの好待遇と言えるでしょう。とは言え残念ながら玄以が没した後は改易処分を食らっていますが、玄以の「前田家」は江戸幕府直属の旗本として存続しています。
豊臣秀吉の義弟・浅野長政
豊臣秀吉の義理の弟
この浅野長政という人物は豊臣秀吉の正妻・ねねの妹を妻にしていたこともあり、秀吉がある程度の身分になった時にはすでに家臣となっていました。つまり親族でありながら最古参の家臣ということで、秀吉の覇業を影に日なたに支え続けた功臣だったものと思われます。とは言え浅野長政は戦場での働きはイマイチだったのですが、豊臣秀吉の天下統一以降にようやく本領発揮、豊臣政権の行政官として大きく名を上げています。
財政から外交までこなす万能行政官
浅野長政は結構マジメな性格だったのか、太閤検地の推進や豊臣家が持つ金銀山の管理を担当しました。太閤検地はともかく金山・銀山はダイレクトにお金に関連する部署ということで、誰にでも任せられるようなポジションではなく、親族ということもあって秀吉からの信頼は相当に厚かったのでしょう。また小田原征伐では戦闘自体にも参加していますが、むしろ戦後処理の方で大活躍、関東以北の大名の窓口となり東北の平定にも大きく貢献しています。ですが独眼竜こと伊達政宗とは全然ソリが合わなかったらしく、浅野長政の仕事っぷりに不満を持った正宗から絶縁状を叩きつけられたこともあったようです。
同じ五奉行ではあったものの浅野長政は石田三成と仲が悪かったようで、むしろ五大老の筆頭格・徳川家康と親密な関係を築いていました。そのためか関ヶ原の戦いでも東軍に長男の浅野幸長(よしなが)と共に参戦、戦後は紀伊国和歌山に37万石の領土を受け取っています。ちなみに年末特番で有名な忠臣蔵において、吉良上野介を斬りつけてしまった浅野内匠頭は長政の3男の子孫だったりします。
財政と輸送のスペシャリスト・長束正家
五奉行の中でも最も新参、かつ異色の人物こそがこの長束(なつか)正家です。当初の長束正家は織田家の宿老・丹羽長秀に仕えていましたが、丹羽家を継いだ丹羽長重が123万石から15万石に減封されるという事件がありました。その際に財政上の不正があったと秀吉に追い打ちを掛けられていますが、長束正家は秀吉に対して帳簿をめくりながら猛反発、減封は防げはしなかったものの丹羽長重への処罰だけは免れました。結局この事件をキッカケに長束正家は豊臣家に取り立てられ、秀吉直属の家臣として抜擢されています。
秀吉の家臣となった長束正家は高い算術能力と事務能力を買われ、兵糧奉行として食料の調達と輸送を担当しました。九州征伐や小田原征伐でもキッチリと仕事をこなしており、特に小田原征伐では20万石、実に3万トンもの米を運んだ記録が残っています。小田原征伐では城を包囲して相手の食料切れを狙う兵糧攻めを行っているため、各地で買い上げた米を荷馬車で何万回も往復して輸送したのでしょうが、その段取りを全て作るという武士らしからぬ繊細な働きで大貢献しています。また太閤検地という土地の価値を算出する作業にも深く関わっており、ここで決定された「石高」は江戸時代にも引き継がれ、藩の規模を示す大事な指標として幕末まで活用されています。
華麗なる裏切り者・増田(ました)長盛
豊臣秀吉がまだ織田家の家臣として近江国(滋賀県)に所領を持っていた頃、増田長盛は200石取りの部隊長くらいの立ち位置で仕え始めています。この増田長盛という人物は物資の調達に長けていたようで、秀吉の毛利攻めでは兵糧や軍装品・弾薬など、軍需品の補給という地味な仕事を担当していました。後に豊臣政権が発足すると各地の大名との取り次ぎも任されるようになり、四国の長宗我部氏や阿波国(千葉県南部)の里見氏と連絡を取った記録が残っています。
この増田長盛という人物の恐ろしいところは、あまりに露骨すぎる二枚舌を持っていたことでしょうか。関ヶ原の戦いが起きる前の増田長盛は、石田三成や前田玄以・長束正家と共に徳川家康に批判的な態度をとっていましたが、実はその裏で家康とも緊密に連絡を取り続けていました。そのため西軍の情報は家康にダダ漏れだった訳で、地味に関ヶ原の戦いの決着はこの人物がつけたのではレベルの密告をしていたりします。
関ヶ原本戦での増田長盛は大阪城の守備に付いていたため、戦うことなく終戦を迎えていますが、数々の情報を流したにも関わらず所領は全て没収され、さらに金1900枚・銀5000枚という大金を献上して命だけは助けられる始末でした。東軍の勝利に貢献したはずの増田長盛は不遇の十数年を過ごしていましたが、大坂の陣で息子が豊臣家に付いてしまったため、戦後に自害を命じられるという悲しい最後を遂げています。
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