豊臣政権期の概略
天下人だけが維持できた独裁政権
紆余曲折を経て天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、自身の思惑を反映するために独自の政権体制を作り上げました。つまりここで成立した豊臣政権はワガママを通すために作られており、かなり強引なことも平気でやっていたりします。
それでも天下人のパワーでなんとか保っていたのですが、結局豊臣秀吉が死去すると崩壊の一途を辿りました。まあ独裁政権なんて大体そんなものなのでしょうが、豊臣政権の場合は徳川家康という大物大名がいたことも大きな問題でした。
政権内で特別扱いの徳川家康
圧倒的な戦力差で臨んだ小牧・長久手の戦いが引き分けに終わって以降、豊臣秀吉は徳川家康に対してビビりきっていました。その結果、豊臣政権が発足しても徳川家康に対する待遇だけはダントツで、石高で言えば豊臣家の220万石よりも多い250万石の領土を用意しています。また親友の前田利家と同じ五大老の筆頭という立場を与えており、もはや他の大名とは一線を画す特別待遇です。
このことは豊臣秀吉の生存中は何の問題もなかったのですが、亡くなった途端に徳川家康の存在感が異様な程大きくなってしまいました。これは同等のパワーを持っていた前田利家が亡くなるとさらに加速、家康は豊臣家を牛耳るモンスターへと進化します。
結局徳川家康に全部もってかれる
そんなモンスターの横暴を見かねた石田三成は、越後国(新潟県)の上杉景勝と結託し、徳川家康に決戦を挑みました。ですがこの関が原の戦いで石田三成は大惨敗、これによって徳川家康に口出しできる者などいなくなったのですが、これは主君であるはずの豊臣秀頼も同様でした。
この戦いの戦後処理で徳川家は400万石にまで膨れ上がったのですが、これに対して豊臣家は恩賞として領地を大放出、50万石ちょいの普通の大名にまで成り下がってしまいました。この結果豊臣家は政権維持能力を失ってしまい、江戸幕府が開かれてから10数年後の「大坂の陣」で完全に滅亡しています。
豊臣政権が存続していた期間
賤ヶ岳の戦いの勝利でスタート
豊臣政権が発足したとされるのは1583年、豊臣秀吉(この頃は羽柴を名乗ってます)と柴田勝家が激突した賤ヶ岳の戦いに勝利したところからとなります。この勝利で羽柴秀吉は織田信長の後継者であることを示し、織田家の家臣団に対して偉そうに指示を飛ばし始めたので、この時こそが豊臣政権の成立した瞬間となります。
この後に小牧・長久手の戦いで引き分けてはいるものの、結局豊臣秀吉の勢いは止まらず、九州征伐・小田原征伐を次々と成功させました。そして東北地方の大名の処置が終わったところで全ての大名が従属したことになり、ここで晴れて天下統一を成し遂げています。
関ヶ原の戦いでの敗北で終焉
豊臣秀吉の生存中こそ政権は成り立っていましたが、彼の没後はほぼ徳川家康の独壇場と化しました。とは言え、秀吉の子供である豊臣秀頼、及びそのお母さんである「淀の方」が君主っぽく振る舞っていたため、ギリギリのところで政権の体を成してはいたようです。
しかし、関ケ原の戦いが終わって力関係が逆転すると、徳川家康は豊臣秀頼に遠慮することなく自身の政権を構築し始めました。その後も豊臣秀頼及び淀の方は君主のつもりで大阪城にいましたが、もはや誰もが徳川家康の命令に従っていた状態ですので、関ケ原の戦いが終わった時点で豊臣政権は崩壊していたことになります。
豊臣政権の特徴と外交方針
基本的には豊臣秀吉の独裁
豊臣政権なんていかにもなネーミングが付いていますが、実はほとんどが織田政権からの流用です。まあ織田政権も普通に織田信長による独裁でしたので、やっぱり豊臣秀吉も同じことをしたかったのかもしれませんね。
という訳で、立法やら裁判については全て豊臣秀吉の一存で決められていました。とは言え、実際の処理を一人でやる訳にもいかないので、そのための子分、もとい実務官僚として「五奉行」がいました。
実務は子飼いの五奉行が担当
関ヶ原の戦いで敗北した石田三成と他4人、この五奉行が豊臣政権の実務のトップに君臨していました。太閤検地やら刀狩りだの、豊臣秀吉がやった政策として有名なものがいくつかありますが、これら全てを五奉行が主導して進められています。
この5人がそれぞれ行政やら宗教を担当したのですが、彼ら全員が豊臣秀吉に見出された人材達ですので、要するに言うことをよく聞く子分に仕切らせていた訳ですね。ついでに彼らが各地の大名との取次をも担当していたので、五奉行を中間に置いたピラミッド型の秩序が出来上がっていました。
五奉行についてはこちらからどうぞ。
ちなみに「五大老が五奉行の上にいた」なんて記事を見たことがありますが、五大老は豊臣秀吉が自身の死期を悟った折、愛息の豊臣秀頼が元服するまでの補佐役として急遽設けた役職です。ですので、秀吉生存中の五大老は特に何もしておらず、没後にようやくスポットライトが当たっています。
五大老についてはこちらからどうぞ。
領土は狭くても金山銀山は独占
豊臣秀吉は日本最大の戦力で天下を制した人物ではありますが、最大の領土を保有していた訳ではありません。前述の通り徳川家康には日本の約8分の1となる250万石を与えており、また前田利家を始めとして100万石クラスの大名もゴロゴロいたため、豊臣家は領土的には結構貧弱だったりします。
ではどうやって豊臣秀吉が政権を維持していたのかと言えば、シンプルにお金持ちだったからです。石見銀山といった貴金属を算出する鉱山、そして当時日本一の商業都市である大阪を手中に収めていたため、領土の広さに頼らずとも圧倒的な戦力を維持できていました。また、ポルトガルやスペインとの貿易でさらに大儲け、この財力こそが豊臣政権を支えていた訳です。
謎の強気外交と朝鮮出兵
アジアの王を目指した豊臣秀吉
日本を統一してしまった豊臣秀吉は有頂天になったのか、なぜかアジア圏の王であるとして自認し始めました。ということで秀吉はアジア各国に対して従属を強要していますが、実際に当時の日本は鉄砲の保有数が世界一だったため、割りと戦力差を考慮していた可能性もあったりします。
朝鮮半島にあった李氏朝鮮に対しては従属だけでなく、当時の中国王朝「明」を征服するための案内をも要求しました。ところがそもそも李氏朝鮮は「明」の援助で建国しているため、もちろん豊臣秀吉の要請に応えられる訳がなく、むしろ罵倒して突っぱねる勢いだったようです。しかし、これに困ったのは2国間の仲立ちをしていた「対馬の宗氏」、彼は秀吉の機嫌を損ねないために大嘘をついてしまいました。
事態を悪化させた宗氏の大嘘
この時の対馬の宗氏にとって、豊臣秀吉が怒って自分を攻撃してこなければ良い訳ですし、また海を挟んだ朝鮮半島でのこと、まあ嘘をついてもバレないと思ったのでしょう。という訳で、宗氏は朝鮮に対しては「視察にでもおいで」くらいで呼び出し、秀吉に対しては「OKもらいました」という嘘の報告をしてしまいました。
ところが実際に朝鮮からの使者がやってくると、もちろん話が噛み合う訳がありません。ということで当然のごとく秀吉は怒り出し、朝鮮出兵が始まってしまったという流れです。まあ大嘘をついた対馬の宗氏も大概ですが、「怒られる=斬首」が普通にある時代ですので、まあやっちゃった気持ちもなんとなく分かる気がします。
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