豊臣秀頼と豊臣政権を支えるべくして選ばれた「はず」の男たち・五大老

前田利家と徳川家康のイラスト 安土桃山時代のまとめ・その他記事
五大老筆頭・前田利家と徳川家康

豊臣秀頼のサポート役としての五大老

圧倒的な強権を誇った豊臣秀吉

豊臣秀吉の小田原征伐や奥州仕置が済んだのは1590年、つまりこの年こそが秀吉の天下統一が成し遂げられたタイミングです。豊臣秀吉はその後も朝鮮出兵など活発な動きを見せていますが、天下統一後の豊臣政権はほぼ秀吉個人の独断によって動いていました。実は朝鮮出兵も本人以外は全く乗り気ではなかったらしいのですが、そこは天下人の強権でゴリ押しし、各大名たちは嫌々ながら付き合った、というのが実情だったようです。

つまり当時は豊臣秀吉の独裁状態だったため、豊臣政権には他の権力者なんて存在せず、偉そうな役職に就いている人物とて秀吉の意志の代行者でしかありません。そのため「大老」なんて重要そうな職は全くもって必要なく、極端なことを言えば豊臣秀吉以外の人間は全て下僕同然だった訳です。

豊臣秀次事件の余波によってできた五大老

そんな圧倒的な覇者たる豊臣秀吉でしたが、この頃にはすでに老齢と言える時期に差し掛かっており、いつか自身も倒れることを見越していたのでしょう。そのため豊臣秀吉は甥に当たる豊臣秀次に関白の座を譲渡、自身の後継者であることを内外に対して積極的にアピールしています。ところが1595年になると事態が一変、豊臣秀次が謀反を企んだとして切腹する羽目になり、この秀次事件が起きたことで当時生まれたばかりの豊臣秀頼に未来が託されることになりました。

この頃の豊臣秀吉はすでに60歳に近く、もはや豊臣秀頼が育ちきるまで自身が保たないと考えたのか、死後に息子を補佐させるための「大老」を五人選出しました。これまで「大老」という職分は豊臣政権に存在していなかったのですが、豊臣秀吉が自身の死後のことを考えて、「豊臣秀頼を助けてね」という意図でできた訳です。つまり豊臣秀吉にとっては相変わらず誰もが下僕同然、この後に起きた「慶長の役」も完全に秀吉の独断で決行されており、「五大老」達の意思なんか全然反映されていなかったりします。

有名無実のまま終わった「五大老」システム

朝鮮出兵の第2回「慶長の役」の真っ最中、豊臣秀吉は老衰だか病気で静かに息を引き取りました。この時に豊臣家を継いだ豊臣秀頼はまだまだ幼児でしかなかったため、やっと「五大老」が主君のために輝く時がやってきました。ここまでの展開は完全に豊臣秀吉が描いたシナリオ通りに進んでおり、後は「五大老」のサポートによって豊臣政権は盤石、そして豊臣秀頼が成人すれば豊臣家は万々歳といったところでしょうか。

ところがこの後の展開は秀吉のシナリオとは大きく異なり、「五大老」筆頭格の徳川家康に権力が集中し始めてしまいました。これに対してもう一人の筆頭格・前田利家が牽制を入れはするものの、残念ながら1599年に病没してしまい、ここで徳川家康に対抗できる人物が皆無となった訳です。一応は五奉行の一人・石田三成が抵抗を続けはしますが、やはり徳川家康の勢いを止めることができず、結局は関ヶ原の戦いで大敗北を喫してしまいました。つまり「五大老」というシステムは全く機能しないまま消滅してしまったのですが、折角ですのでこの5人の人物達をご紹介したいと思います。

石田三成や増田長盛など「五奉行」についてはこちらからどうぞ。

豊臣家から全てを奪った五大老の筆頭格・徳川家康

豊臣秀吉に警戒感を抱かせた男

豊臣秀吉は徳川家康を家臣として扱っていたものの、その能力と人望について非常に高い評価をしていたというか、むしろビビっていた節すらあります。秀吉の「人たらし」の能力についてはかなり有名ですが、意外に戦争も相当に強かったようで、あまりというかほとんど敗戦の記録はありません。

そんな秀吉ですら家康と対峙した「小牧・長久手の戦い」では苦戦を強いられており、家康の3万に対して10万以上の兵力を用意した上で引き分けに終わっています。このことは本能寺の変から急遽天下人への道を走り続けた豊臣秀吉にとって、引き分けとは言えほぼ挫折であり、むしろ敗北感の方が強かったのではないでしょうか。この戦いの後に秀吉は自身の母親を家康の元に人質として送り、「害意はないから豊臣家の家臣になって!」という感じでなんとか家臣に取り込んでいます。

豊臣秀頼の将来を託された徳川家康ですが

そんな経緯があったためか、徳川家康は豊臣政権でも特別扱いされ続けており、豊臣家に次ぐ2番手ポジションをキープし続けています。徳川家康も秀吉からの丁重な扱いに応えたのか、小田原征伐では外交から軍事までしっかりとした働きを見せています。小田原北条氏が滅亡した後は領地替えにて関東に転封されてはいるものの、石高にして250万石の大大名に昇進を遂げました。そして徳川家康は豊臣秀頼のサポート役である「五大老」に任命されると、秀吉の大親友である前田利家とともに筆頭格として扱われています。

もともと豊臣秀頼の後見人たる「五大老」の筆頭ということは、もし豊臣秀吉が亡くなれば前田利家と一緒に豊臣政権を切り盛りする立場となる訳です。秀吉もこの辺りは十分理解した上での決定だったようで、むしろ秀頼と淀の方に宛てた遺言には「万事徳川殿に相談するように」なんてガッツリと記述されています。

そんなことがあったため、関ヶ原の戦いで石田三成が挙兵した際、淀の方は徳川家康を頼りにして石田三成の討伐を依頼しました。そのため加藤清正や福島正則も堂々と徳川家康の味方に付いており、徳川家が率いる東軍は「正規軍」としての立場で戦いに臨み、結果的に大勝利に終わっています。そして結局豊臣家が持っていた「天下人」の地位も家康に奪われており、秀吉が遺した「五大老」は何だったのか感だけを残して崩壊しています。

徳川家康のイラスト
しれっとすべてを奪った徳川家康さん

もう一人の五大老筆頭格・前田利家

若い頃から仲良しの豊臣秀吉と前田利家

徳川家康と並んで五大老の筆頭格に置かれたのは、豊臣秀吉と織田家の家臣だった頃から仲が良かった前田利家でした。利家は1560年の桶狭間の戦いが起きる少し前、織田信長お気に入りの茶坊主を斬殺しており、織田家から追放されていた時期があります。その後の利家は桶狭間の戦いなど数戦に勝手に参戦、そして勝手に手柄を立てるという謎の行動で信長に許しを願い、「まあ頑張ったからおk」ということで帰参を果たしました。

とは言え放浪生活中の利家はやはり色々な面で苦しかったようで、それまで親しくしていた友人から相手にされない事もあったそうです。ですがそんな中でも秀吉だけは普通に接していたようで、利家はそんな状況下でも親しくしてくれる秀吉に恩義に近い感情を持っていたとか。利家の名語録に「困っている時にこそ真の友達がわかる」なんてものがありますが、この言葉はダイレクトに秀吉を指しているものと思われます。

前田利家のイラスト
前田利家

豊臣秀吉から厚い信頼を受けるも

豊臣秀吉とそんな間柄にあったためか、前田利家は豊臣政権の中でも仲介役や交渉役をこなすことが多く、秀吉の意志を代弁する役回りになっていました。しかも「天下人の親友」という強い立場ながらも相手への配慮は怠らなかったらしく、そのため多くの大名に慕われ頼りにされていたようです。秀吉としてもそんな利家に厚い信頼を寄せており、大切な跡取り息子・豊臣秀頼の傅役(もりやく)、つまりお守り兼教育係に指名する程でした。

そんな厚い信頼を受けていた前田利家でしたが、豊臣秀吉の没後にはその遺言に従って豊臣秀頼の傅役に就任しています。ところがその翌年に前田利家も突如として病に倒れてしまい、結局は豊臣秀吉の後を追うようにして亡くなってしまいました。それまでは福島正則といった武断派大名も前田利家には従って大人しくしていたのですが、亡くなってしまったことで抑えが利かなくなり、関ヶ原の戦いまで一気になだれ込んで豊臣政権は崩壊しています。歴史上では「〇〇が生きていたら、こんなことにはならなかった」なんてよく言われますが、前田利家こそこの言葉に当てはまる人物だったのかもしれませんね。

幕末にリベンジを果たした長州毛利家の祖・毛利輝元

毛利氏は毛利元就の代に急激に拡大しており、中国地方の中央部以西、そして九州の北部にまで領土を持つ巨大な大名家でした。毛利輝元という人物は興隆の祖・毛利元就の孫に当たりますが、父の毛利隆元は元就よりも早くに亡くなっており、輝元は祖父の死後すぐに若くして家督を継承しています。織田信長の家臣時代の秀吉とは数年に渡って戦い続けていますが、本能寺の変後に秀吉が旧織田家を掌握した頃から急接近、輝元は半ば臣従する格好で同盟を結んでいます。

豊臣秀吉は当時の毛利氏が持っていた所領の大半を認め、石高にして120万石という大大名として豊臣政権に参画しました。輝元は秀吉の九州征伐にも同盟軍として参戦しており、小田原征伐こそ遠すぎて参戦していないものの、戦後には改めて家臣として臣従しています。そして朝鮮出兵にも家臣として派兵し、豊臣秀次事件が起こると五大老の一人となり、名実ともに豊臣家の重鎮となりました。

毛利輝元の居城・広島城
毛利輝元の居城・広島城

その後に起きた関ヶ原の戦いでは西軍の総大将という重責を担っていますが、毛利家が持つ大部隊は大阪城の守備を担当していました。そして開戦後も大阪城から微動だにせず、結局戦戈を交えないままに西軍が敗北、輝元は120万石から周防国・長門国の2カ国30万石にまで減俸されています。ですがこの輝元の家系は長州藩の藩主として幕末まで存続し、倒幕の中心として戊辰戦争でも大活躍し、250年の時を越えて関ヶ原のリベンジをしたとも言えます。

徳川家康と奥州方面の監視者・上杉景勝

数々のツワモノが戦いを繰り広げた戦国時代ですが、越後の虎こと上杉謙信は無双に近い化け物じみた強さで数々の勝利を収めました。そんな謙信(この謙信という名前も戒名です)は仏教に深く帰依していたようで、僧侶のように質素な生活を送り、身の回りに女性を近づけないという戒律を守り通したまま亡くなりました。そのため実子がいない謙信の死後には当然のごとく後継者争いが起きており、謙信の姉の子、つまり甥に当たる上杉景勝がその争いを制し、軍神とすら呼ばれた人物の跡を継いでいます。

上杉家の家紋・竹に雀
上杉家の家紋・竹に雀

上杉家を継いだ後の景勝は、織田家の筆頭家老・柴田勝家と激闘を繰り広げていました。ですが本能寺の変で織田信長が変死したことで織田軍は撤退、その後に政権を握った豊臣秀吉とはむしろ友好的な関係を築いています。豊臣政権に入り込んだ景勝は財政面の改善を志向、佐渡を支配していた本間氏を討伐し、世界的にも有数の金鉱・佐渡金山を手にしました。この佐渡金山は金だけでなく大量の銀も産出しており、金は日本全体の3割、そして銀に至っては6割近い産出量があったようです。景勝はこの天然資源で軍備を整え、関東に広大な領土を持つ徳川家康、そして大阪から目が届きづらい東北地方の監視役を担っています。

関ヶ原の戦いの直前に景勝は石田三成と結託、会津で挙兵し江戸を攻撃するために南下しました。ところが宇都宮にいた結城秀康の鉄壁の守備に阻まれ江戸攻撃を断念、北へ転進し伊達政宗や最上義光と激闘を繰り広げました。結局西軍が敗北したことで上杉家は120万石から30万石に減俸、さらに佐渡金山も江戸幕府に取り上げられていますが、カツカツの財政の中でも景勝は家臣をただの一人も解雇せずに雇いきっています。

豊臣秀吉の「身内」扱い・宇喜多秀家

宇喜多秀家の旗印・児文字
宇喜多秀家の旗印は「児」を崩した児文字

大御所感が漂う五大老達の中でも、この宇喜多秀家という人物だけは明らかに浮いた異色の存在となっています。まず年齢的に他の4人と全く釣り合いが取れておらず、最年長の前田利家から見たら33歳年下であり、2番目に若い毛利輝元と比べても20歳も年下です。また毛利輝元の場合には中国地方の覇者・毛利家を長年率いた実績がありますが、この秀家は五大老になった時点で28歳くらいの若者であり、数戦の戦歴しかないヒヨッ子だった訳です。なぜそんな人物が歴戦の猛者や古狸と同じ立ち位置にいるのかと言えば、このことは豊臣秀吉が持つバックボーンの薄さが原因だったりします。

我が身一つで天下人になった秀吉ですが、出自は百姓か、もしくは非人だった可能性すらある下層階級の出身者です。武士の世界では婚姻を通して頼れる親戚を作り、いざとなったら助け合うのが定番だったのですが、秀吉の親類縁者にそんな頼れる階級の人は存在しません。それでも秀吉にとって幸いだったのは、実の弟・豊臣秀長が異様なまでに優秀だったことですが、この秀長は天下統一を果たした翌年に亡くなっています。孤独の中に置き去りにされた秀吉にとって、喉から手が出るほど欲しいものは「裏切りを心配しなくていい身内の家臣」だったのでしょう。

秀家の父・宇喜多直家は、中国侵攻を進めていた羽柴秀吉に降伏後すぐに病死しています。危篤に陥った宇喜多直家は羽柴秀吉に息子の行く末を託し、秀吉はその想いに応えて秀家を養子にし、また秀吉の養女・豪姫(実父は前田利家)を妻として与えました。そもそも秀家という名前自体も秀吉から1字もらっており、要するに10歳の頃から秀家は羽柴家、そして豊臣家の一員として過ごした「身内」だった訳です。という訳で秀家は若干28歳にして豊臣政権の中枢に入り込みましたが、関ヶ原の戦いで西軍に付いて敗北、徳川家康に容赦なく改易されて八丈島に流罪にされています。

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