豊臣秀吉は大明帝国征服を目指す | 文禄の役と慶長の役

安土桃山時代の時代史
肥前名護屋城の跡地

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国内に文字通り敵なしの豊臣秀吉

九州征伐と小田原征伐、そして奥州仕置が済んだことで、豊臣秀吉は武力で日本国内を完全に統一するという偉業を達成しています。1590年に北条氏直が降伏して小田原征伐が完了しており、その2年後となる1592年にはもう「文禄の役」がスタートしていますが、実は秀吉が朝鮮出兵を行った理由は現代でもわかっておりません。戦乱が終わった直後の混乱期ということもあるのでしょうが、秀吉が何か理由付けをしたという形跡もなく、ただ朝鮮半島へ向けて各大名を派遣したという事実だけが残されています。

この2回に渡る戦役の内容自体はかなりハッキリとした記録が残っており、何月何日に誰がどこまで進軍した、といった各隊の足取りまでしっかりと記録されています。もちろん記録とはそういった事実だけを残すものであり、人の気持ちや野心を綴るものではないでしょう。ですが16世紀末に起きたこの朝鮮出兵は、大明帝国が滅ぶ一因ともなる大規模な戦争です。当時世界最強とも言える軍事力を持っていた秀吉が、どういった意図で東アジアの征服を目論んだのかは、研究が進んだ現代においても議論の対象となっています。

秀吉が朝鮮出兵を行った理由についてはこちらからどうぞ。

出兵前に日朝交渉

豊臣秀吉は出兵前に李氏朝鮮に向けて使者を送り、国王自ら日本に出向いて挨拶に来るよう要求しました。さらに秀吉は明国征伐の案内をするよう要求しており、もはや自身の配下大名であるかのように李氏朝鮮を扱っています。日本を統一して無双状態となっていた秀吉にとっては、李氏朝鮮など敵ですらないといった感覚だったのでしょうが、この要求を聞いた朝鮮側からすればあまりに侮辱的な内容です。また当時の李氏朝鮮は中国の超大国・明の同盟国というか属国化していたため、秀吉の要求を受け入れることは明国を裏切ることにもなります。

この辺の事情はかなり繊細だったようで、朝鮮側はすんなり拒否という訳にもいかなかったようです。というのも日本は朝鮮とほぼ隣り合っている立地にあり、李氏朝鮮としても豊臣秀吉という人物が持つ軍事力をある程度把握していました。朝鮮としては明国という超大国が背後についているとは言え、当時50万挺もの鉄砲を持っていた日本軍を上陸させたくはなかったでしょう。

やる気満々の秀吉と、できれば攻められたくないけど体裁は保ちたい朝鮮、そしてできれば朝鮮に行きたくない豊臣家家臣の思惑が絡み合い、1年以上に及ぶ日朝交渉が行われました。李氏朝鮮からは様々な代替案が出されており、内心では海外遠征になど行きたくもない豊臣家家臣は朝鮮からの提案を必死に取り次ぎました。ですが遠征したくてたまらない秀吉は代替案をことごとく却下、結局交渉は決裂し戦争が始まっています。多少なりとも遠征に前向きな大名がいたのかもしれませんが、ほとんどの大名達にとっては自国経営が最優先であり、秀吉が言うから仕方なく付き合っていたというのが実情でしょう。つまり朝鮮出兵という遠征は、豊臣秀吉という天下人のほぼ独断で行われたものと思われます。

豊臣秀吉の朝鮮出兵

文禄の役

文禄の役・慶長の役で拠点となった名護屋城の跡地(江戸時代に破棄されています)

朝鮮出兵のために建築された名護屋城を拠点に、日本軍は最初の攻略地点となる釜山を目指し、続々と海を渡りました。攻撃前には釜山を守る朝鮮軍に対して明国への道案内と服従の意志を確認していますが、この最後通牒は完全に無視され、日本軍は改めて攻撃を開始しています。戦国時代という過酷な生存レースを勝ち残った日本軍は、釜山の城郭に猛攻を仕掛け、わずか半日の間に陥落させています。

釜山を制圧した日本軍は渡海するために有利な沿岸地域を手に入れ、10万を越す後続の軍が次々と釜山に上陸しました。そして日本軍は進路上の城を奪取しなら進撃し、補給路を確保しながら首都・漢城府(ソウル)を目指しています。日本軍が漢城府近辺に押し寄せると、当時の朝鮮王・宣祖は王妃や子供を連れて城から脱走し、城内は大パニックを引き起こしました。日本軍が漢城府に到達した時にはすでに火の手が上がっており、小西行長や加藤清正は城門を破壊して城内に侵入、開戦からわずか3週間という短期間で首都を陥落させています。

ソウル(旧・漢城府)の町並み

明の援軍と講和交渉

漢城府を陥落させた日本軍は進撃を続け、平壌を制圧した後もさらに北上を続けています。中でも朝鮮の北東部にまで到達した加藤清正の部隊は、国境を超えて女真族が支配していた満州にまで侵攻し、城を一つ奪取しています。この時には朝鮮人も加藤清正の部隊に参加しており、一緒になって女真族を攻撃するという謎の出来事も起きています。

そうこうしている内にようやく明国からの援軍として李如松が朝鮮に到来、これまで順調に侵攻していた日本軍は停滞を余儀なくされています。装備すら整っていなかった朝鮮軍と比べて、明軍は兵の練度も高く銃器類も多く装備しており、加えて率いる将軍は名将・李如松ということで、ここで初めて防戦を強いられています。特に明軍による平壌奪回作戦は幾度となく繰り返され、日本軍はついに平壌城を放棄し撤退しました。

明軍はその後漢城府付近にまで進み、日本軍が食料を集積していた倉庫を焼き払うという大戦果を挙げています。これによって日本軍は突然の食糧危機に瀕していますが、焼き払った明軍も実は食料が枯渇しており、両軍ともに食糧難という泥沼状態に陥っています。食べ物がなければ戦いどころではないということで急遽交渉が始まり、日本軍が釜山まで撤退するという条件で講和が成立しています。

嘘の報告と和平決裂

現代の感覚ではかなりあり得ない話ではあるのですが、日本と明国の間で講和が結ばれた後、双方の君主に対して嘘の報告がされています。豊臣秀吉への報告では明軍が降伏したとされており、また明の皇帝に対しては日本軍が降伏したという、君主の機嫌を損ねないためだけに有利であるかのような報告がされていました。冗談のような話ではありますが、お互いの君主が嘘の報告を受けたまま、一時的な和平が結ばれています。

明の皇帝は日本軍降伏という報告を受けていたため、豊臣秀吉という人物を自身の支配下に置くため、日本に対して使者を派遣しました。この使者を迎えた秀吉は貢物でも持ってきたのかと期待していたところ、むしろ秀吉に対して上から目線の使者に激怒、そして実情を知ってさらに激怒ということで再出兵が決定されました。各地の大名達はやっと文禄の役が終わってホッとしていたのも束の間、またも朝鮮出兵に駆り出されることになります。

慶長の役

前回の文禄の役では最終的に食料の問題で失敗したということで、慶長の役では一本のルートではなく、全域を統治しながら侵攻する方針に切り替わっています。文禄の役ではやや遅めの登場だった明軍は、今回の慶長の役では開戦直後から準備万端で防衛にあたっていました。ですが火力優位の日本軍の進撃は止まらず、朝鮮半島の南西部に当たる全羅道・忠清道を2ヶ月足らずで占領しています。

その後の日本軍は無理な進撃はせず、むしろ拠点となる城の守備に努めています。日本軍の停滞を見た明・朝鮮連合軍はたびたび日本軍が守る城に攻め寄せ、激闘が繰り広げながらも日本軍は防衛に成功しています。そんな日本軍の足場が固まりつつあったその時、秀吉ではなく五大老という豊臣政権の重鎮の連名で急遽撤退命令が下されました。1598年8月、夏の暑さが残る中、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は病によって亡くなっています。

戦役の終結と影響

秀吉が死去すると後継者とされていた豊臣秀頼が跡を継いではいますが、慶長の役の段階ではまだ6歳です。天下人の地位を受け継ぎはしたものの、あまりに幼く戦争や政治など当然わかるはずもありません。秀吉という強力すぎるリーダーがいたからこそまとまっていた各地の大名は、秀頼が跡を継いだ直後から権力闘争を開始し、海外遠征どころの話ではなくなってしまいました。そして五大老の名の下に遠征軍の撤退が指示され、もともと嫌々ながら協力していた大名達は大喜びで帰国の途についています。

こうして豊臣秀吉のほぼ独断で始まった朝鮮出兵は、弘安の役・慶長の役という2回の遠征の後、ウヤムヤな形で終結しています。戦場となった朝鮮は荒廃し大きく弱体化、僅かに残った利権を多くの人々が奪い合うという悲惨な状況に陥っています。また援軍を出した明国も自国の壁となる朝鮮半島の防衛に大きな力を割いており、凄まじい額の出費となっていました。そのため国境付近の異民族討伐にまで手が回らなくなり、その間に中国北東部を縄張りとしていた女真族が勢力拡大、この40年後に超大国・明を滅亡させるに至っています。

朝鮮出兵という遠征は、結局日本・朝鮮・明国の3国に大ダメージを負わせただけの結果に終わっています。この戦いで多額の戦費を捻出し不満を抱えた大名は、豊臣政権のNo.2となる徳川家康に接近し、それを石田三成が監視しブロックするという構図が生まれます。豊臣家への忠誠心を掲げ続ける石田三成、そして五大老の筆頭として豊臣家の中枢に居座る徳川家康、この2人による日本の覇権を賭けた戦いはもうすぐです。

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