関ヶ原の戦い前夜
徳川秀忠の第二次信州上田合戦
1600年8月、小山評定から下野国・宇都宮に駐留していた徳川家康は、徳川秀忠の軍団だけを中山道へ向け、自身は江戸に戻り東海道から近畿に進出する方針を固めました。中山道沿いには第一次上田合戦で大敗北を喫した真田昌幸の居城となる信州上田城があり、秀忠には必要であればこの城を攻略しながら美濃国方面へ抜ける任務が与えられています。険しい山道での行軍に加えて真田家攻略の時間を考慮し、秀忠軍は一ヶ月ほど先行する形で進軍を始めました。
徳川秀忠の攻撃目標が自分の城であることを知った真田昌幸は、いかにも敵わないという体で秀忠軍に降伏の使者を出しています。ところが真田昌幸は秀忠軍が接近してくると突然抗戦の意思を示し、支城を放棄し本拠となる上田城に立て籠もりました。余裕で信濃国を通過するつもりだった秀忠は、降伏したと思っていた真田昌幸の敵対を警戒し、10倍以上の兵力があるにも関わらず攻撃を躊躇、停滞を余儀なくされています。秀忠は結局大した戦闘も起こさず警戒を続けていましたが、家康から早急な行軍の指示を受けると抑えの兵のみを残して行軍を再開、第二次信州上田合戦はほとんど血が流れることなく静かに終結しました。ですがここで秀忠軍が停滞していたのはわずか数日だったにも関わらず、この停滞が仇となって秀忠は家康と合流することなく関ヶ原の戦いを終えることになります。
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東西両軍関ケ原に集う
徳川秀忠が中山道で真田昌幸に困らされている頃、徳川家康はゆったりと東海道を通り、9月14日には関ケ原近くに着陣しています。この段階ですでに石田三成と西軍も近くまで到着しており、14日の夜には関ケ原に陣を張り戦いに備えています。決戦は関ケ原で、なんて申し合わせていたワケではないのでしょうが、東西両軍ともに当たり前のように関ケ原に集結しているのは興味深い事実だと思います。もっとも両軍合わせて20万を越える大軍が集まっていますが、その戦力を活かせる広い場所はそうそうないため、三成の南近江(滋賀県南部)と徳川家康の領国の中間に位置する関ケ原はどちらにとっても都合が良かったのでしょう。
家康はすでに西軍の何人かの大名に裏切りの約束を取り付けていましたが、それでも秀忠の中山道軍はまだ到着しておらず、万全の支度ができていたわけではありません。石田三成としても多数の合戦をくぐり抜けてきた家康は怖かったでしょうし、それゆえに倒さねばならない相手だったのでしょう。お互いに敵がすぐ近くにいることを把握しており、落ち着かない夜が空けた15日、徳川家康は早朝から関ケ原へ移動し陣を布きました。雨が降りしきり霧が立ち込める関ケ原、両軍の衝突は徳川家の重臣・井伊直政のイタズラじみた行動で口火を切ることになります。
関ヶ原の戦い
一番槍の手柄は誰のもの
「一番槍」はそれだけで大きな手柄であり、また周囲の武士達に誇れる名誉でもあります。その価値は大きな戦であればあるほど高く、まして両軍合わせて20万を越す大戦での「一番槍」となれば、子々孫々に至るまで鼻高々でしょう。歴戦の勇者とて最初に突撃して敵の集中砲火を浴びるのは嫌でしょうし、そういった中で最初に駆け出す「勇気」を称える文化があったのでしょう。
東軍では「一番槍」の名誉を欲しがるあまりの勝手な行動を抑制するためか、先陣は福島正則が務めるということで決定していました。福島正則もこの名誉に熱く感じ入ったのか、当日の朝から突撃する予定だったようです。福島正則がやる気満々で隊列を組んでいる頃、井伊直政は数百人という少数の兵を連れて関ケ原を見回っているところでした。霧で視界が悪い中でバッタリと西軍の兵と遭遇すると、ちょっかいを掛けようと思ったのか井伊直政はなぜか数百の兵で攻撃開始、そして騒ぎを聞いた福島正則が駆けつける形で参戦しています。そこから東軍西軍共に敵を求めては戦い始めるといった始末で、戦争の規模の割にはグダグダっとした開戦模様だったようです。
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総勢20万の激突がわずか6時間で決着
朝から始まった関ケ原での戦闘は、お互いに譲らず戦いは拮抗していました。東軍西軍共に十分すぎる程の兵力を有しており、また全ての兵が一斉に横並びで当たるワケでもないため、崩れそうな部隊に援軍を送り続ける形で膠着を保ったものと思われます。お互いに決め手を欠きながら消耗戦の様相を呈してきた昼頃、東軍の仕込んだ内応策が西軍を奈落に突き落とします。
徳川家康は戦前から多数の西軍大名に内応の約束を取り付けており、戦闘が始まってから裏切るよう指示を飛ばしていました。ですが小早川秀秋や吉川広家など裏切りの約束をしていた大名はここまで何のアクションもなく、どちらかと言えば傍観する構えをとっていました。そこで家康は小早川軍に向かって弾を込めていない空鉄砲を一斉掃射、これに慌てた小早川秀秋は一気に西軍の横腹に突撃しました。ここまである意味バランスがとれていた西軍の戦線が崩壊し撤退、そして逃げる西軍を東軍が背後から襲いかかる形で猛追撃し、西軍が散り散りになったところで東軍の勝利となっています。
関ヶ原の戦いの影響
首謀者・石田三成を始めとして西軍大名を処分
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍に属した大名達に対して処分が下されています。敗北した西軍も全滅したわけではなく、ほとんど戦わずして終戦を迎えた大名も多かったのですが、一旦決着が付くとさしたる抵抗もせずに処分を受け入れています。もはや日本国内に敵がいなくなった徳川家康の処分はなかなかに苛烈で、少数の例外ケースを除いてほとんどの西軍大名の領土を取り上げ、戦勝の報奨として東軍大名に渡しています。名目上の西軍総大将となっていた五大老の一人・毛利輝元も例外とはならず、全ての領地を取り上げられるという厳しい処分が決まっていたのですが、寝返って東軍の勝利に貢献した吉川広家の取り計らいでギリギリ存続する始末でした。
石田三成は戦後しばらく潜伏していましたが、結局見つかり捕縛されています。三成は首謀者として戦乱に導いた人物として特に厳しい処分が下されており、捕縛されてから1週間もの間大阪城の門前に縛り付けられ、晒し者にされています。戦いに勝利し意気揚々と大阪城に入城する大名達の冷ややかな視線を浴び続け、三成と不仲だった福島正則などは蹴りながら罵声を浴びせたそうです。豊臣家の輝かしい未来と、それを補佐する夢を見続けた三成は、どのような気持ちでその仕打ちに耐え続けたのでしょうか。石田三成は終戦して二週間後、京都の六条河原で斬首され、首を晒されるという罪人としての扱いで処刑されています。
形式上の君主・豊臣家と事実上の支配者・徳川家康
東軍は建前的には豊臣秀頼を助けるために戦っていたため、勝利の報奨を豊臣家から受け取るのが当然となります。ですが豊臣秀頼は未だ幼く、また補佐する形で口出ししていた母・淀の方も領地配分などわかるはずもないため、当然五大老の筆頭となる家康が配分を決めることになります。まして困ったことは何でも家康に任せるように、という豊臣秀吉の遺言もあったため、ここまでは割と当然の流れだったものと思われます。
ですが問題はここからで、家康は徳川家の親族や譜代の家臣達を優遇し、さらには豊臣家が持っていた領地の大半を自身の領地に組み込みました。それまで石高にして222万石という領地を持っていた豊臣家ですが、この家康が主導した戦後処理で65万石にまで削られています。元々豊臣家は米による税収にそこまで依存しておらず、大阪という大経済都市の税収で成り立っていた側面もあるにはあります。ですがこの段階で徳川家の領土だけで400万石、さらに親族や譜代家臣の領土を含めれば日本全土の半分近くにもなっています。
この時点で豊臣家と徳川家の力関係は完全に逆転してはいるのですが、建前上の立場は豊臣秀頼が君主であり、家康は高い地位を持つにしろあくまで家臣です。とはいえ家康としてもこのまま終わる気などサラサラ無く、自身の政権を打ち立てるために次なる一手を打ち始めます。世界史上でも類を見ない平和な時代が、徳川家康という偉人の意志で始まろうとしています。
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