黒田八虎はクセモノだらけ
江戸時代に入って平和な時代が訪れると、人々は往時の戦乱の日々を思い出すのか、戦国大名や武将達の活躍を描いた作品が数多く作られました。浮世絵や絵画、また浄瑠璃や講談など様々な分野で取り入れられているため、戦国武将たちの物語は江戸時代の文化・芸能面を支えた一大テーマとも言えるでしょう。特に「武田二十四将」や「徳川十二神将」といったグループ化された武将達は民衆の大好物だったようで、彼らの名前を書き並べただけの扇子や旗がそこかしこで販売されていました。そんなグループの一つとして黒田官兵衛・黒田長政親子に仕えた名将達、「黒田八虎」といういかにも強そうな括りがあったりします。
この「黒田八虎」は「黒田二十四騎」の中でも選りすぐりの8人を指して呼ばれますが、黒田家を生んだ播磨国の土地柄なのか、かなりクセの強い家臣達が揃っています。その最たる例は福島正則から名槍「日本号」を呑みとった逸話を持つ母里太兵衛ですが、「槍の又兵衛」こと後藤又兵衛も相当アクが強く、主君である黒田長政も胃をキリキリさせながら接していたことでしょう。そんなクセモノ達も官兵衛に逆らったエピソードは全く見当たらないため、官兵衛にだけは腹の底から心服していたのかもしれません。人数が多いのでかなりざっくり目ですが、個性豊かな8人の黒田武士達をそれぞれご紹介したいと思います。
黒田官兵衛の良い人エピソードはこちらからどうぞ。
福島正則から日本号を呑みとった母里太兵衛
酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士(くろだぶし)
この「黒田節」と呼ばれる民謡はお父さん方の宴会における定番らしいのですが、この歌のモチーフは黒田家の名将・母里太兵衛友信(もりたへえ)とされています。主君・黒田長政のお使いで太兵衛が福島正則を訪れた際、すでにベロベロに酔っていた正則に酒を勧められたのですが、酒豪の太兵衛とて仕事で来ているということで断りました。すると福島正則はドデカイ盃になみなみと酒を注ぎ、「飲み干せたらなんでもやるよ、それとも黒田武士は根性なし?」と煽ったため、カチンときた太兵衛がサラッと一気飲み、涼しい顔で日本号という槍を持って帰ったというお話になっています。このエピソードに由来して日本号は「呑取の槍」とも呼ばれるようになり、呑み取られてしまった福島正則は後でこっそり返して欲しいと頼んでいますが、太兵衛は「そういう約束だから」ということでキッパリ断ったとか。
日本号を含む天下三名槍についてはこちらからどうぞ。
当時の大大名である福島正則に対しても意地を張り通した太兵衛ですが、主君である黒田長政にもかなり容赦がなく、いわゆる「言い出したら聞かない部下」タイプだったようです。ですが黒田官兵衛にはかなり従順だったようで、官兵衛から「栗山利安と義兄弟になれ」という無茶振りに近い命令も素直に受け入れ、生涯を通じて協力し合いながら黒田家に貢献しました。官兵衛もそんな2人の活躍を誇りに思っていたのか、危篤の際には義兄弟の証である誓紙を自身の墓に入れるよう頼んだことが伝わっています。
黒田長政と一番仲悪い・後藤基次
数々の豪快エピソードを持つ後藤又兵衛基次(もとつぐ)は、槍の扱いが達者で多くの武士を突き伏せてきたことから「槍の又兵衛」の異名でも有名だったりします。又兵衛は子供の頃に黒田官兵衛に引き取られて育てられた経緯があるため、官兵衛にとっては従順で頼もしい家臣ではありましたが、官兵衛の長男である黒田長政との確執エピソードが異常に多く、多分ではありますがお互いに相当嫌い合っていたものと思われます。
朝鮮出兵で長政が敵将と一緒に馬上から転がり落ち、地上で必死の組討ちになった時、又兵衛は馬上で涼しい顔をしながら傍観していたとか。又兵衛の言い分としては「こんなんでやられる奴は主君ではない」だったらしいのですが、放置された長政としては当然納得いく訳もなく、帰国後の又兵衛追放に繋がっています。この追放劇は官兵衛の2年後に起きているため、又兵衛の手綱をしっかり握れる人間が不在だったために起きた事故だったのかもしれません。
結局又兵衛は様々な大名家を渡り歩いた後、大坂の陣で豊臣家側の武将として戦い、10倍以上の伊達政宗の軍に突撃し討ち死にしています。他の7人は皆黒田家の中で高い身分に落ち着いていますが、この又兵衛だけは黒田八虎の中で唯一戦死している人物だったりします。
黒田八虎の良心・栗山利安
播磨国は姫路栗山(今の兵庫県姫路市の栗山町)に生まれた栗山善助利安は、16歳から黒田官兵衛の側近として仕えた古参中の古参武将です。この武将は若い頃から官兵衛の側で色々な物事を学んだためか、後藤又兵衛や母里太兵衛といった偏屈系とは一線を画しており、黒田八虎の中でも特に控えめで礼儀正しい良い人タイプだったようです。とは言っても善助とて幾多の戦場をくぐり抜けた歴戦の勇者、律義者だけに戦場への想いは尋常ではなかったようで、危篤で寝込んでいる際にも「馬を引け!」だの「鉄砲を用意しろ!」だの喚いた後に、寝る、といったことを繰り返していたそうです。
善助の年齢は官兵衛の4つ下ということで、善助にとって官兵衛は主君でありながらも少し年上の頼もしいお兄ちゃんくらいだったのでしょう。そんな善助から見て官兵衛の長男・黒田長政は甥っ子のように感じていたのか、戦場でとりあえず突撃したがる長政をたびたび諌めていたようです。長政はそんな善助をうざったく思いながらも頼りにしていたのでしょうか、関ヶ原の戦いで石高にして52万石の大大名になった長政は栗山善助を筆頭家老とし、筑前福岡藩の中で2万石というそこらの大名並の待遇を与えています。
名将・吉弘統幸を討ち取った井上之房
井上之房は黒田官兵衛の父・黒田職隆の小姓として仕え始めているため、30歳過ぎまで官兵衛との絡みはほとんどありません。ですが官兵衛が荒木村重の居城・伊丹城の牢獄で幽閉されていた期間は栗山善助や母里太兵衛と共に、城下町に潜伏しながら救出の機会を探るという、結構危険な行為もやっていたようです。その後黒田職隆が亡くなると改めて官兵衛の家臣になり、九州征伐や朝鮮出兵に参戦しています。
関ヶ原の戦いでの之房は九州に居残って官兵衛と共に動いており、西軍に付いた大名の城を片っ端から落として回りました。之房はその一連の戦いの中で吉弘統幸(よしひろむねゆき)という大友家の名将を討ち取っていますが、実はこの吉弘統幸という人物は過去に之房の家に匿われたことがあったため、戦の中で自ら之房に討たれたとか。戦いの中で重症を負ってしまい観念したためにそうしたらしいのですが、吉弘統幸を失ったことで大友軍は大崩し、この戦いの趨勢が決したとされています。
黒田長政の影武者も務めた黒田一成
この黒田一成は普通に黒田姓を名乗ってはいますが、本来は黒田家の人間ではなく加藤重徳という人物の子供として生まれています。このことは黒田官兵衛が荒木村重に捕まり投獄されている間、加藤重徳がアレコレと官兵衛の世話を焼いてくれたということで、牢から出た後に恩に報いるために養子にしたためです。一成は官兵衛の長男・黒田長政の3歳年下ということで、官兵衛は本当に長政の弟であるかのように慈しみながら育てたそうです。
元服後の一成は官兵衛の元で様々な戦争に出陣していますが、特筆すべきは九州征伐でしょうか。この半年余りも続いた戦いで一成は多くの首を取り武功を挙げていますが、城井鎮房との一戦だけは敗退しています。ですがこの退却戦で一成は長政の影武者を演じて長政を逃し、自身も無事に帰還するという離れ業をやりきっています。その後に起きた関ケ原の戦いでも石田三成の重臣を討ち取るなど東軍の勝利に大貢献し、勲功のあった一成の家は福岡藩の重鎮として明治まで存続しています。
黒田官兵衛の弟達・黒田利高・黒田利則・黒田直之
この3人は黒田官兵衛の実の弟達であり、黒田利高が次男、黒田利則が三男、黒田直之が四男の4兄弟となっております。次男の利高は残りの2人に比べて元服が早かったためか、豊臣秀吉の毛利攻略戦や明智光秀との山崎の戦い、また徳川家康との小牧・長久手の戦いにも官兵衛と共に参戦しています。
この兄弟にはやたらとキリスト教の教えが刺さったようで、官兵衛を含む4人が4人とも洗礼を受け、熱心なキリスト教徒として活動していました。特に黒田直之は当時広島を領有していた福島正則に掛け合い、広島城の城下に教会を建てる許可をもらってわざわざ自費で再建しているため、相当熱心な信者だったものと思われます。
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