翼を得た虎は壬申の乱に勝利する | 大海人皇子が起こした古代史上最大のクーデター

虎に翼 飛鳥時代の時代史
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豪族に恨まれた天智天皇

中大兄皇子は「大化の改新」のスタート宣言「改新の詔」を発表し、土地や人民を国家のものとする「公地公民制」、そして戸籍を作成し「班田収授法」を開始するなど、豪族達の力を削ぐ政策を次々と施行しました。中大兄皇子は乙巳の変ですでに朝廷内でのイニシアチブをとっていたにも関わらず、改革の際には共謀者・中臣鎌足を全面に押し出し、自身は天皇にはならずに皇太子、それに加えて摂政という立場で改革を進めています。

大化の改新についてはこちらからどうぞ。

乙巳の変では暗殺という割とよろしくない手段で蘇我氏を排除、なおかつ豪族の力を削ぎ落とす制度を取り入れたことにより、中大兄皇子は豪族達の恨みを買いやすい立場にありました。そのような状況下で即位すれば、「自分が天皇になりたかったからやったんしょ?」だの「豪族潰しといて自分は良いご身分ですね?」なんて言われかねないため、自身が即位しなかったのは批判を逸らす目的もあったものと思われます。という訳で今回記事のテーマ「壬申の乱」は、後に天智天皇として即位する中大兄皇子が「豪族達から結構恨まれていた」という前提で始まります。

朝鮮半島で日本軍大惨敗・白村江の戦い

当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)と新羅(しらぎ)、そして日本と同盟関係があった百済(くだら)の3国で熾烈な戦いを繰り広げていました。そんな中で新羅は中国王朝・唐と同盟を結んで他の2国への侵略を始め、あっという間に百済が滅亡しています。幸いなことに百済の王子や多くの軍兵は辛くも日本へ逃げ延びていましたが、日本にとって友好的な百済が滅亡し、敵対的な新羅が海の向こうに陣取るのは国防上の問題ということで、中大兄皇子と中臣鎌足は百済王子を伴って朝鮮へ派兵しました。

この遠征軍は時の天皇・斉明天皇が自ら九州まで軍に同行するという気合の入れようでしたが、道中で病死してしまうという切ない所から始まりました。また日本が擁立しようとしていた百済王子もなかなかアレな人物だったようで、行軍中からワガママ放題な振る舞いを続け、朝鮮から一緒に亡命してきた将軍達から呆れられていたようです。上がそんなでは下もまとまる訳もなく、しまいには将軍同士で暗殺合戦が起こる始末でした。

それでも一応日本・百済連合軍は朝鮮へ渡っていますが、この時に起きた戦いはぶっちゃけ日本の大惨敗に終わっています。この日本軍対唐・新羅軍の戦争は「白村江の戦い」と呼ばれていますが、この敗戦は百済という友好国の滅亡を確定させ、国防のため九州で防衛体制を敷くことを強いられる結果になりました。そのため近畿から遠く離れた九州の警護には多額の費用が必要となり、この警備体制を維持するために国のお金がもっと必要、ということで「律令制」の推進を加速させる必要があった訳です。

ようやく中大兄皇子が天智天皇として即位

母である斉明天皇が白村江の戦いの最中に亡くなったため、戦後に満を持して中大兄皇子が天智天皇として即位しました。天智天皇はまず日本の国防について取り組んでおり、北九州に「防人」と呼ばれる衛兵を常備し、また防壁や連絡用の狼煙を設置しています。さらに白村江の戦いで対立した唐との関係を改善させるべく、遣唐使を派遣しご機嫌取りに励んでいます。

天智天皇は即位してすぐに後継者を定めており、自身の弟「大海人皇子(おおあまのおうじ)」を皇太弟として指名しました。そして天智天皇は自身の長男「大友皇子」を太政大臣に引っ張り上げ、身内でガチガチに固めた政権体制で大化の改新を推進しています。そんな折に乙巳の変から長く行動を共にしていた重鎮・中臣鎌足が病死してしまいます。

中臣鎌足の死と「虎に翼」

天智天皇が即位した翌年、中臣鎌足の危篤を知った天智天皇は多大な功績を称える意味で「藤原」の姓を与えました。この時から中臣鎌足の子孫達は「藤原氏」を名乗り、中臣氏から独立した氏族として繁栄の道を突き進むことになります。

藤原鎌足が亡くなってから2年後、天智天皇も重い病に罹り危篤状態に陥りました。天智天皇はすでに皇太弟に指名していた大海人皇子に後のことを託そうとしましたが、大海人皇子は天智天皇からの要望を拒否、自ら髪の毛を落として僧侶となり朝廷を後にしました。

この時大海人皇子はすでに現在の朝廷に見切りをつけており、そのために一旦自ら身を引いた上でのクーデターを考えていたようです。天智天皇の跡を継ぐことは現在の体制を受け継ぐことになり、それは「大化の改新」によって力を削がれつつあった豪族達の恨みを引き受けることにもなります。この時の大海人皇子は「今の政治体制に疑問はあるけど自分で政治をしたい」という気持ちだったようで、だったらもうクーデターで全部リセットしちゃえ、という結論に至ったものと思われます。ちなみに「力のある人物を自由にさせる」という意味の「虎に翼」という故事成語がありますが、これはこの時の大海人皇子に由来しています。

猫に翼
こちらは「猫に翼」ですがあまり強くなさそうです

孤立した大友皇子と豪族からの支持を受ける大海人皇子

大海人皇子が身を引いたため、天智天皇は自身の子供である大友皇子を後継者に指名し、大友皇子を支えるべき豪族達を集めて後事を託しました。ですが大化の改新ですでに有力な豪族なんてものはいなくなっており、集まったのは大した財力もなく政治に絡んだこともない、いわゆる小物ばかりが揃ってしまった訳です。その後天智天皇は程なくして亡くなっていますが、天智天皇一人に権力を集中させすぎた結果、跡を継ぐべき大友皇子は途方に暮れながらショボい群臣と相談することになりました。

孤立のイメージイラスト

一方の大海人皇子はもはやクーデターを起こす気満々であり、天智天皇の政策に不満を持っていた豪族達が続々と集結しました。十分な軍が整っていたにも関わらず大海人皇子は美濃国(岐阜県)に移動し、関東の豪族からも兵を徴発、さらに伊勢国(三重県北部あたり)でも軍を募り、万全の状態を作った上でクーデターの兵を挙げています。

両者の力の差が明確になった壬申の乱

大海人皇子の反乱を知った大友皇子は慌てて側近達に相談しますが、周囲にいるのはやはり色々と足りていない豪族達でした。それでも迎え撃とうということで決定しますが、肝心な軍事面で頼りになる人物などいる訳もありません。一応各地に救援の使者を送りますが、すでに大海人皇子の息がかかっている地域では使者が捕まえられることすらあり、十分な軍を用意する前に大海人皇子の軍が目前に迫りました。

この時大友皇子は農民から兵を募るという、当時としては画期的な方法で軍の頭数を揃えています。ですが豪族が持つ戦闘員にはさすがに刃が立たず、終始大海人皇子が有利な戦いを繰り広げていたようです。それでも大友皇子率いる朝廷軍は善戦を続け、一度は大海人皇子軍を押し返すなどしたのですが、朝廷軍の内側はボロボロだったのか内紛も勃発、最後は勝利を諦めた大友皇子の首吊り自殺によってこの「壬申の乱」が終結しました。

大海人皇子が天武天皇として即位

に勝利した大海人皇子は終戦から半年後、天武天皇として即位しました。天武天皇はとりあえず政治秩序の回復を目指し、「八色の姓」や冠位制度の改定を行っています。ですが天武天皇は「壬申の乱」で自身に味方した豪族達にそれほど優遇することなく、皇后や皇族、つまり天皇家の身内を重用して中央集権化をより推進しました。

天智天皇の政治は天皇一人に権力を集中させる意図がありましたが、天武天皇はその教訓を活かしたのか、皇族に薄っすらと権力を移譲して自身を支援させる方針をとっています。この体制は「皇親政治」と呼ばれ、天武天皇は皇族に支えられて圧倒的なパワーを手にし、後に平城京への遷都をも実現させて奈良時代に突入します。天武天皇に味方した豪族達は新政権でそれなりの地位を手にはしていますが、どちらかと言えば「裏切られた感」の方が強かったのではないでしょうか。この後天武天皇は天智天皇と中臣鎌足が始めた大化の改新を推し進め、完全なる「律令制」の実現に向けた政策を採っています。

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日本史上唯一の反乱軍が勝利した事件

日本のお国柄とも言うべきかクーデター自体が少ないのですが、朝廷に対して反乱した側が勝利を収めた事件はこの「壬申の乱」ただ一件です。鎌倉時代の末期に起きた建武の乱も足利尊氏が後醍醐天皇を倒してしまったクーデターですが、この乱での足利尊氏は一応上皇からの院宣で動いた建前になっているため、シチュエーションとして似てはいますが若干異なっています。とは言え後醍醐天皇と敵対したこと、そしてその後に起きた観応の擾乱でも「南朝」という朝廷と敵対しているためか、天皇家に背いた人物として「日本三大悪人」の仲間入りを果たしていたりします。

道鏡・平将門・足利尊氏が入ってしまった日本三大悪人についてはこちらからどうぞ。

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