豪族とは
地域に根付いた地方領主です
国の領域内にありながらも数代に渡って土地を持ち財産を築き上げ、一定の支配権を持った一族は日本史上で「豪族」という呼称で呼ばれています。「豪族」とはあくまで自立しながら地域に土着した地方領主を指すため、中央政権から派遣されてきた官僚は「豪族」とは呼ばれません。とは言え派遣された官僚がそのまま土着して「豪族」になったケースも多く、また「豪族」が中央政権によって地方官に任命されたケースもあるため、定義付けるのがちょっと難しい単語だったりします。支配権の確立のためには武力も必要ということで、大体の「豪族」が私兵を雇い、独自の軍事力を持っていたケースが多かったようです。
日本史における豪族
大和時代の朝廷は豪族の集合体
神武天皇によって大和国が平定されて以降、日本は及び天皇を頂点とする体制に移行しています。ここで生まれた大和政権は天皇を中心とした豪族達の集合体であり、言わば土地持ちのお金持ちが寄り集まって天皇家を支えていた格好になります。
各豪族はそれぞれ自分の本拠を持っており、例えば大伴氏であれば摂津国と河内国の沿岸部、物部氏であれば河内国の内陸部がそれに当たります。この豪族達はそれぞれの強みを活かして政権に対して貢献することで、朝廷内での立場を高めようとしました。前述の大伴氏は天皇の護衛や宮廷警護、物部氏は製鉄や国軍の指揮を取ることで、朝廷で確固たる地位を築き上げています。
飛鳥時代は蘇我氏という豪族が主役
神武天皇を始めとする大和時代の天皇は自身で討伐に向かったりしていますが、飛鳥時代に入る頃には天皇自身が動くこと自体がなくなっていきました。この時期の天皇は豪族達の代表という立場に落ち着いており、天皇自身が動かなくなるにつれて実権が失われていきました。それぞれの豪族の仕事を統括する立場ではあれど、天皇という地位そのものに実権はなく、豪族達を上手くコントロールして仕事を進めさせるという役割ですね。つまり豪族がソッポを向けば一切仕事は進まないということで、天皇が豪族達のご機嫌を取る立場になり、むしろ力の強い豪族の意向次第で次代の天皇が決まるようになっていました。
この体制に移行した頃に朝廷で頭角を表した一族が、後に「乙巳の変」で粛清される蘇我氏です。蘇我稲目は欽明天皇の妻に2人の娘を送り込んだことで、天皇家の外戚というハイスペックなステータスを手に入れました。そして蘇我稲目の子・蘇我馬子による崇仏論争を絡めた他氏排斥が見事にハマり、大和時代から名族として一大勢力を築いていた物部氏をも粉砕しています。その後天皇家と癒着した蘇我馬子は、蘇我氏の血を引く推古天皇や聖徳太子と共に一時代を築き上げました。蘇我馬子の孫に当たる蘇我入鹿が「乙巳の変」で倒れたことで蘇我氏は一気に沈黙しますが、蘇我氏という一豪族にこれでもかと言うほど振り回されたのが飛鳥時代だったりします。
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律令制の導入で豪族がいなくなる
乙巳の変で蘇我氏が倒れた後、天智天皇によって後世で「大化の改新」と呼ばれる政治改革が行われました。この政治改革は隣の大国である唐を見習って「中央集権制度」を理想とし、「律令制」というガチガチの法制度が導入されています。この「律令」は軍の編成から租税の内容まで細かく取り決められていましたが、豪族達にとって最も問題だったのは、経済基盤となる土地が全て朝廷に取り上げられてしまったことでしょう。
朝廷は日本の土地全てを回収し、農民一人ひとりに割り当てる「班田収授法」を施行しました。そのため土地を所有しその場所に根付いていた豪族が一気に消滅し、代わりに朝廷からの官職を与えられ、そして階級や役職に応じた給料が支払われるサラリーマン、もとい新たな身分の貴族となりました。この時持っていた土地に応じて高い階級が与えられたようなのですが、先祖代々受け継いできた土地を奪われた形の元豪族たちはたまったものではありません。
結局この律令制による土地制度は色々な意味で現実にフィットせず、100年も保たずに半壊していますが、日本の土地の所有権をリセットするという結果を残しました。このリセットされた日本で暴れまわった一族こそが、天智天皇の側近として活躍した藤原鎌足の子孫達、いわゆる藤原氏一族だったりします。つまり乙巳の変と大化の改新という出来事は、居並ぶ有力豪族を全て消し去り、後の藤原氏大繁栄の原因を作ってしまった事件とも言えます。
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