琉球王国に対して刃を向けた石垣島の雄
琉球王国は、尚円王が築いた第二尚氏王統で黄金期を迎えることになります。特に、第二尚氏三代目の王、尚真王は琉球王国の制度をまとめ上げ、その礎を築きます。更に、力を誇示するかのように勢力拡大に努め、最大版図を築き上げました。
そのような中、先島(さきしま/宮古列島と八重山諸島をまとめて呼ぶ際の呼称)では宮古島の島主が琉球王府に朝貢を開始します。そして、その範囲を八重山諸島にまで及ぼそうと画策することが反乱のきっかけを生むことになってしまいます。
このように権力を笠に着る者から、命を懸けて守ってきた大切な島を渡すまいとして、石垣島の有力者の一人であるオヤケアカハチが反旗を翻します。こうして琉球王府の軍勢と一戦を交える「オヤケアカハチの乱」が勃発するのです。
そこで、今回は当時の先島の情勢と「オヤケアカハチの乱」の結末を見ていきましょう。
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群雄割拠の先島諸島
琉球王国成立当初の先島諸島と王府との関係は、従属関係が確立しておらず、先島では独自の文化を形成していました。
尚真王が即位した頃には、宮古島、多良間島などを含む宮古列島と石垣島、西表島、与那国島、波照間島などを含む八重山列島のそれぞれに有力な按司や島主が覇権をかけて争っていた時代となっていたのです。その按司や首領たちは、いずれも名の知れた人物たちです。まずは、各列島に分けて、どのような人物が治めていたのかを見ていきましょう。
宮古列島における最大の有力者
宮古列島の有力者として名前が上がるのは、唯一人と言っても過言ではないかもしれません。その人物とは、宮古島統一を果たした一族である仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみや)です。
彼は幼少の頃から頭が良く、7歳の頃には百姓たちの管理を自ら志願し、見事な采配で百姓たちの仕事を割り振ったため、周りの大人たちが舌を巻いたとさえ言い伝えられています。
この仲宗根豊見親は、力を強めていく琉球王府に対し、これを利用しようと考えるようになります。彼は、琉球王国への入貢を頻繁に行うようになり、琉球王府から一目置かれる存在になっていきます。そして、その積極的な入貢姿勢によって、ついに仲宗根豊見親は時の琉球国王、尚円王から正式に「宮古頭職(かしらしょく)」に任命され、宮古地域を支配下に置くことに成功します。
そして、この「宮古頭職」就任が八重山列島へ大きなうねりを起こすことになっていくのです。
八重山列島における有力者たち
宮古列島は、尚真王の治世までに仲宗根豊見親によって一つにまとめ上げられていましたが、八重山列島はそうはいきませんでした。特に石垣島は多くの有力者がおり、対立関係にありました。
石垣島の大浜村には、オヤケアカハチとコルセがおり、平得村にはタケチャ、平久保村に加那按司(かなあじ)、川平(かびら)村に仲間満慶山(なかまみつけーま)、石垣村に長田大主(ながたうふしゅ)というように石垣島の中だけでも、まさに群雄割拠の様相を呈していました。
一方、周辺の島にも有力者が存在してました。西表島に慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょ)、波照間島に明宇底獅子嘉殿(みうすくししかどぅん)、与那国島にサンアイイソバというように、八重山列島が一つにまとまる気配は感じられない程でした。
しかし、そこに宮古列島の頭である仲宗根豊見親が触手を伸ばしてきたことによって、群雄割拠の八重山列島に変化が生まれることになったのです。
オヤケアカハチの徹底抗戦
琉球王府から宮古頭職に任ぜられた仲宗根豊見親は、その支配力を八重山列島にまで及ぼさんとして行動を起こします。森林資源の豊富な八重山列島に目を付けた彼は、宮古の入貢の一部を、八重山列島の有力者に負担させようとしたのです。
仲宗根豊見親に真っ先に反発したのは、石垣島の雄、オヤケアカハチでした。彼は同じ石垣島のコルセとタケチャを味方につけると、宮古島へ攻め込むような姿勢を見せます。これに驚いた仲宗根豊見親は、琉球王府へ援軍を要請します。
オヤケアカハチらは、更に味方を増やそうと、各地の有力者たちと同盟関係を結ぼうと東奔西走します。川平村の仲間満慶山、波照間島の明宇底獅子嘉殿は、オヤケアカハチらの要望を頑なに拒否したため殺されてしまいます。同様に、長田大主もこれを拒んだため、弟(息子説もある)を殺害されます。長田大主自身は命からがら、西表島へと逃れて行きました。この長田大主を西表島の有力者であった慶来慶田城用緒は匿い、琉球・宮古の連合軍に味方することを決意します。そこで、彼はオヤケアカハチら同様、王府に反旗を翻した石垣島の加那按司を討ち取ってしまうのです。
与那国島は、この反乱には一切かかわろうとしませんでした。サンアイイソバという女傑は、後に侵攻してきた宮古の軍勢を追い払っていますが、この反乱には関係を持たなかったようです。
こうして、オヤケアカハチを中心として、石垣島の有力者たちのほとんどが琉球王府に対し、徹底抗戦することを決意し、1500名の兵士(とは言うものの、実態は老人や女性も含まれていた)を集め、琉球・宮古の連合軍3000名を迎え撃つことになります。
奮戦するオヤケアカハチ
琉球・宮古の連合軍は、悪天候の影響やオヤケアカハチの策にかかり、上陸を果たすことができずにいました。
そこで、琉球・宮古連合軍の総大将である大里按司(おおざとあじ)は、石垣島へ侵攻する前に寄った久米島から連れてきた君南風(ちんべー)という神女に願って、於茂登照(うむとぅてらしぃ)に願を掛けてもらいます。すると、「筏に火をつけて流し、その筏に目を向けている間に攻めよ」とのお告げが降ります。そこで、大里按司はお告げ通りに火のついた筏を流したのです。するとアカハチは敵の襲撃と勘違いし、その筏を追いかけて行ったため、ついに琉球・宮古連合軍は石垣島に上陸を果たします。
多勢に無勢のオヤケアカハチ軍は、琉球・宮古連合軍とまともに戦えるはずもなく、壊走してしまいます。オヤケアカハチ自身も追撃を逃れ、於茂登岳の麓にある底原(そこばる)へと逃れてきます。しかし、妻である古乙姥(くいつば)が琉球・宮古連合軍に捕まってしまいます。連合軍はオヤケアカハチの居場所を吐かせるために、古乙姥を拷問にかけます。その姿を見かねたオヤケアカハチは自ら声を発して居場所を明かしてしまいます。連合軍の追撃をかわしながら何とか逃れていたオヤケアカハチですが、遂に奮戦むなしく捕虜となり刑に処せられることとなります。
ここに、八重山のプライドを守ろうと立ち上がった雄、オヤケアカハチの乱は終結したのです。
オヤケアカハチの乱・まとめ
オヤケアカハチの乱が平定された後、八重山列島は琉球王府の支配体制の中に組み込まれることになります。そして、この反乱の制圧に協力した有力者たちには様々な役職が与えられることになります。例えば仲宗根豊見親の次男である真刈金豊見親(まちりがにとぅゆみや)は石垣の頭職に任ぜられ、仲宗根豊見親の妻は「大阿母(おおあむ)」という宮古の最高女性神職に任命されます。
こうして、琉球王国は先島をその勢力に取り込むことに成功し、黄金期を迎えることになります。しかし、その後琉球王国は大きな受難の時を迎えることになります。
いかがだったでしょうか。黄金期を迎えた琉球王国に対し、一歩も引かずに反抗したオヤケアカハチは今でも八重山の人々に慕われ、英雄として尊敬をされています。その理由として、琉球王府という権力に、自らの大事なものを守ろうと戦ったその姿が人々の心をとらえていることがあるのかもしれません。この様に、琉球史の中でも先島の歴史はまた一風変わっており、私たちの好奇心をくすぐるものになっています。機会があれば、先島の歴史や英雄たちをご紹介したいと思っています。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
オヤケアカハチの乱・参考サイト様
石垣島の英雄!オヤケアカハチ伝説!!碑と規格外の足跡の地とは!?
https://ishigaki-pr.com/oyakeakahati/
石垣島の歴史 オヤケアカハチ
https://yaeyama.icokinawa.com/2020/09/26/post-2301/
オヤケアカハチ
http://www.zephyr.justhpbs.jp/oyakeakahachi.html