強大な権力を手中にした猛女 | 尚円王の妃・宇喜也嘉

琉球の人物録
玉陵

女傑として知られる国母

日本史上にも、女傑として知られる人物が多く存在します。「尼将軍」として源頼朝の死後も幕府に影響力を持った「北条政子」や、自分の息子を将軍にするために画策し、応仁の乱のきっかけを作ったとされる「日野富子」などです。琉球史においても有名な女傑が存在します。それが、今回ご紹介する宇喜也嘉(おぎやか)です。

彼女は、琉球王国の全盛期を築いた王である尚真王の母で、尚円王の妻でした。それだけであれば、一人の王妃でしかありませんでしたが、彼女を有名にしたのは尚真王即位を画策したことや、玉陵(たまうどぅん/王家の墓)の碑文に刻まれた文言でした。それでは早速、琉球の「猛女」と呼ばれた王母・宇喜也嘉という人物について見ていきましょう。

尚円王の妻として

第二尚氏王統を築いた尚円王は、24歳の頃に伊是名島を追われるようにして沖縄本島へと逃れてきます。その理由は、水田の水を盗んだため村人の反感を買ったという説や、女性関係で問題を起こしてしまったために村を追われたという説があります。尚円王は伊是名島を追われた際、「弟」と「妻」を連れていました。この「妻」に当たるのが、宇喜也嘉・・・ではありません。この時に「妻」とされているのは尚円王の最初の妻に当たる人物で、宇喜也嘉は尚円王の2番目の妻ということになります。

宇喜也嘉が結婚したのは20歳の時で、尚円王が50歳でした。その年齢差は30歳ということになります。その頃、尚円王は「御物城御鎖之側(おものぐすくうざすのそば)」という要職に就いていました。この職は、王府の外交官と那覇の監督官を兼ねるもので、政治の中枢を任されていたと言っても過言ではありません。

その後、尚円王は琉球王国の王となります。宇喜也嘉は、その頃の尚円王を支えた女性だったのです。

余談ではありますが、尚円王の最初の妻のその後は記録がなく、詳しいことは分かっていません。

息子・尚真王の即位を裏で画策

1476年、尚円王は62歳で亡くなります。そこで、後継者として王府は王弟であった尚宣威を討議の末に、二代目の琉球国王に選出します。その理由の一つとして、尚円王の息子である尚真は、当時12歳と若かったためだとされています。

宇喜也嘉は、その王府の決定に反感を持ちます。その理由としては、尚宣威が王に即位した場合、その息子たちに後を継がせ、自分の子供である尚真は王になれないのではないかという心配があったのではないかと考えられます。本来であるならば、王位を継ぐのは長男であるとされていたためです(沖縄では今でも、長男が家を継ぐという考え方が強い)。

そこで、宇喜也嘉は一計を案じます。当時の琉球王国は「祭政一致」を旨としており、王位を正式に継ぐには、ノロと呼ばれる女性神官らが受ける神託が必要とされていました。ノロたちは、時には政治を大きく動かすほどの力を持っていたのです。宇喜也嘉は、この琉球王府の「祭政一致」のシステムを利用することを思いつきます。

尚宣威王の即位から半年後、王は神託を受け、名実ともに琉球国王になるはずでした。しかし、ノロたちは玉座に座る尚宣威王に背を向け、尚真こそ王に相応しいという内容の「おもろ(神事や祝い事の際に歌われる叙事詩)」を唱え始めたのです。

これは、王妃としてノロを束ねる立場にあった宇喜也嘉が、自身の権力を利用して一芝居を打たせたと伝わっています。自身の子供の将来を考えた、母としての愛情もあったのかもしれません。

こうして、尚真王は琉球王国三代目の王となり、尚宣威王は傷心のうちに亡くなってしまうのでした。

強大な権力を持つ女帝として君臨

息子を王位に就けた宇喜也嘉でしたが、その野心はそれだけでは終わりませんでした。彼女は、この権力を固めるために動きます。尚真王の妹である音智殿茂金(おとちとのもいかね)を、神職の最高権威である聞得大王(きこえおおきみ)に就任させます。こうして、宇喜也嘉は「祭政一致」を旨とする琉球王国の政治・祭祀、両方の頂点に自らの子供たちを就けることに成功した。こうして、宇喜也嘉は「女帝」と呼ばれるほどに強大な権力を持つようになりました。

宇喜也嘉の権力の大きさを示す文献が残っています。尚真王が即位して間もない頃、遭難して琉球に流れ着いた後に保護された朝鮮人が、宇喜也嘉と尚真王の行進の様子を事細かく記録していました。

それによると、宇喜也嘉の乗る手車は漆塗りに黄金の飾りが付いたきらびやかなもので、20人もの人間が担いでいたと言います。その後に少し遅れて、馬に乗った尚真王が続いたとされます。行列は100名余りの人数で、音楽を鳴らす者や武具を付けた者、爆竹を鳴らす者などが付き従い、大変豪華絢爛だったと記録しています。

また、この朝鮮人たちは通訳を務めた者から、「即位した王はまだ若いため、母君が力を持って政治を執り行っている」との内容の話を聞いたと書いています。

このように宇喜也嘉は、まだ幼い尚真王を支える立場として、強大な権力を得、政治までも取り仕切っていたことが分かります。

王墓・玉陵に書かれた呪いの文

尚真王は1501年、王家とその一族だけが入ることを許された墓、「玉陵(たまうどぅん)」を建設しています。玉陵とは石造の破風屋根で、三連の部屋から構成される王墓です。中央は洗骨までを行う遺体安置室、東は王と王妃の遺骨安置所、西は王子や王女など、王の家族の遺骨安置所となっています。

玉陵は世界文化遺産にも登録されていますが、ここで着目したいのは沖縄最大の破風墓の様子ではなく、外庭に置かれている碑文です。この碑文には、玉陵に埋葬されるべき被葬者の名前が刻まれているのです。即ち、

  1. 尚真王
  2. 王妃(宇喜也嘉)
  3. 聞得大君
  4. 真鍋樽(まなべたる/尚真王の長女)
  5. 中城王子(尚真王の五男)
  6. 今帰仁王子(尚真王の三男)
  7. 越来王子(ごえくおうじ/尚真王の四男)
  8. 金武王子(きんおうじ/尚真王の六男)
  9. 豊見城王子(尚真王の七男)

の9名です。そして、その後に刻まれている文言が、宇喜也嘉がかけた呪いであると解釈されています。

「もし、この陵に入る者の選定で揉めるようなことがあれば、この碑文を読みなさい。この内容に背くような者があれば、天を仰ぎ。地に伏し、祟りあるべし」

宇喜也嘉は玉陵に安置されるのは、尚円王と自分の血を継ぐ者だけで、それ以外の者を安置するなら祟るとまで言い放っているのです。

この碑文は宇喜也嘉存命中、徹底的に守られました。尚真王の長男であった尚維衡は、尚宣威王の娘との子であったとして、玉陵に安置されませんでした(後に尚清王によって安置されている)。

宇喜也嘉は何故、呪いめいた言葉を用いてまで尚円王と自身の血を継ぐ者だけを王墓に安置せよと言ったのでしょうか。ここからは私の推察になるのですが、琉球の歴史は内乱の歴史でもあったからだとは考えられないでしょうか。第一尚氏の時代には王位を巡り、血縁者同士で争ったこともありました。また、尚円王の例に見られるように、家臣の立場から先代の王を追いやる形で即位するという場合もありました。猛女とまで言われる宇喜也嘉でしたが、もしかすると子供たちの未来を考えたのかもしれません。可愛い子供たちのために、誰が王位を継ぐ者かをはっきりとさせ、王位を巡る争いを牽制したとは考えられないでしょうか。手段を選ばず、権力を手中に収めた猛女・宇喜也嘉も、ひとりの母親であったということではないでしょうか。

まとめ

琉球王国にも権力を一手に握った女性がいたことに、少々驚かれた方もおられるのではないでしょうか。琉球史の中でも、宇喜也嘉は強烈な個性を放つ存在です。特に、最後に触れさせていただいた「玉陵の碑文」には強烈な念を感じたのではないでしょうか。あらゆる手段を用いて自らの子供を王にし、祭事を取り仕切る最高神官にしたその情念は、日本史に見られる女傑に勝るとも劣らないでしょう。

琉球史は、時系列で見ると大きな事件と呼べるものは数えるほどしかありません。しかし、その歴史の中に生きた人物たちは、とても活き活きとして輝きを放っています。これからも、そのような人物に焦点を当ててご紹介出来ればと思っています。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

宇喜也嘉・参考サイト様

沖縄の風景 第二尚氏の女帝 宇喜也嘉(1)

http://coralway.jugem.jp/?eid=1821

Smart Magazine OKINAWA 王家の墓に愛憎劇アリ!世界遺産・玉陵

https://www.smartmagazine.jp/okinawa/article/sight/13499/

seseragi_jiro0241のブログ 第二尚氏王統の墓稜「玉陵の呪いの碑文」の謎 

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