琉球初の王・舜天王
琉球の歴史はアマミキヨの開闢神話から始まり、その後尚巴志の琉球王国樹立によって国家としての道を歩み始めています。今回の記事では神話時代から尚巴志登場までの間、琉球で初めて王統を築いたとされる人物のお話をさせていただきます。
沖縄県那覇市にあった崇元寺(そうげんじ)という寺院には、琉球で王の地位にあった歴代の人物達が祀られていました。この崇元寺は残念ながら太平洋戦争の沖縄戦で消失していますが、戦後地元の人々や在留米軍の寄付によって一部再建され、残りの敷地は崇元寺公園として憩いの場となっています。この崇元寺で初代国王として名前を刻んでいた人物こそ、今回ご紹介する舜天王(しゅんてんおう)です。この初代国王となった人物は日本本土にルーツを持っていたとされており、かなり信憑性が不確かな話もありますが、その真偽の考察も合わせて記載しております。まずは琉球史の正式な歴史書、「中山世鑑」における国王になるまでの道のりを辿ってみたいと思います。
天孫氏の仇討ちで初代の王に即位
舜天王の物語は、浦添という地域の人々に推され、15歳の若さで浦添按司の地位に就くところから始まります。聡明で心優しい舜天は按司という地方を治める職務に就いた後も、善政を行い更に人々の心を掴み、その影響力を拡大していきました。
そんな中で平和だった琉球に大きな事件が勃発、25代で1万年以上も続いた天孫氏が滅ぼされてしまいます。25代で1万年という時点で相当アレな感じはしてしまいますが、ひとまず置いておくことにします。天孫氏滅亡の首謀者である利勇は自ら中山王を名乗り、沖縄本島中央部の支配者として君臨しました。
そんな利勇の反逆劇を許せなかった舜天は、兵を集めて天孫氏の仇討のために出陣しました。首里城にいたとされる利勇の軍勢は、舜天軍の奇襲を受けると蜘蛛の子を散らすように逃走、利勇自身も敵わないと悟り妻子を殺し、自らも切腹して果てます。こうして反逆者を討ち果たした舜天は人々に推され、西暦1187年に琉球初代の正式な王である舜天王が誕生しています。王となった舜天は人々の期待に応えて善政を布き、以後3代に渡って繁栄を続けたと伝わっています。
源氏の子孫とされた舜天王
正式な歴史書では源為朝の落胤に
善人による報復劇とそこから王位に就いたというありがちな物語はここまでで、ここからは問題となる舜天のルーツについて触れたいと思います。琉球王国の正史『中山世鑑』には初代王について様々な記述がありますが、特筆すべきは父が源為朝であるとされていることでしょう。鎌倉幕府の創立者・源頼朝の叔父に当たる源為朝が、平安末期に起きた保元の乱に敗北して伊豆大島へ脱走、そこからさらに船で逃げたところで漂流し沖縄に流れ着いたとされています。日本史上では伊豆大島で捕まって処刑されたことになっていますが、逃げおおせた先で色々あったという、源義経=チンギスハン説に似たストーリーとなっています。舜天王の誕生年は1166年とされていますが、この年は京都で保元の乱(1156年)が起きたちょうど10年後となっており、ちょっと眉唾な話ではあれど年代的な辻褄はキッチリ合っています。
また「中山世鑑」では源為朝は運天港に流れ着いたとされていますが、この港は源為朝が「運」を「天」に任せて辿り着いたことに由来しているという説があります。運天港は沖縄県北部の今帰仁村(なきじんそん)にありますが、伊豆大島からこの港まで1400キロを越える距離があり、時速10キロの海流にうまく乗ったとしても6日間近く漂流したことになります。食べ物や水はどうしたのかなという疑問も湧いてしまいますが、なにはともあれ源為朝は大里按司の妹と結ばれ、2人の間に生まれた子供こそが舜天王、といった日本を広く使った物語となっています。
琉日同祖論は薩摩藩・江戸幕府と国民への配慮?
琉球王朝によって『中山世鑑』が製作されたのは、17世紀の第二尚氏王統に移り変わってからのことです。その頃の琉球王国はすでに日本本土の薩摩藩の支配下に入っており、間接的にではありますが江戸幕府の幕藩体制に組み込まれていました。その現実を受け入れるため、そして江戸幕府や薩摩藩と良好な関係を作るため、琉球王府は自らのルーツを源氏に寄せたのではないか、という説が現代では有力となっています。徳川家は源氏長者として日本全土を統括しており、また島津家もルーツを辿れば祖先は源頼朝に行き当たります。この「琉球王府と日本の統治者は同じ先祖なんですよ」という筋書きは「琉日同祖論」と呼ばれ、琉球王が沖縄の地を統治する根拠として使用されていたようです。
『中山世鑑』を編纂したのは羽地朝秀(はねじちょうしゅう)という人物であり、彼は江戸幕府や薩摩藩への従属関係を前提とし、日本本土への依存度が高い国家体制を築き上げていました。既に日本本土に存在していた源為朝の琉球行きの伝説を取り入れることで、国民に対して江戸幕府の体制下に組み入れられ、また薩摩藩の支配下にいる正当な理由を作ったとも言えます。普通であれば国家間の従属は国民の不平を買うものですが、「相手は源氏の偉い人だからしょうがないよね。」という言い訳でしのごうという作戦ですね。「琉日同祖論」のすごいところは、全く同じ理屈が江戸幕府と薩摩藩の藩主・島津氏に通用するため、一粒で二度おいしい最高の一手だったのでしょう。もしかしたら舜天王が本当に源為朝の子供だった可能性もありますが、どうやら羽地朝秀による政治的な理由のコジツケの可能性が高い気がします。
オマケ:安徳天皇と舜天王は同一人物説
この説はオマケ程度になってしまいますが、ちょっと面白かったので記載させていただいています。そもそも源為朝の落胤説が正式な歴史書に記載されているため、こちらは異説中のさらに異説となってしまいますが、舜天王は平氏政権によって即位した安徳天皇であったとする説です。源平合戦の最終章となる壇ノ浦の戦いに平氏が敗れ、入水したとされる安徳天皇が、実は平家の落人と共に琉球へやって来ていたという、これまた源義経的なストーリーです。ちなみに安徳天皇は母と祖母が平氏であるため、いわば平氏政権の象徴となる形で天皇に即位しています。
舜天王とその母は浦添の牧港近くに住んでいたとされていますが、その旧家の屋号がそのものズバリな「平良(てーら)さん」とのことです。そして舜天王の母の墓所があるとされている南城市(なんじょうし/沖縄県南部の都市)にも平良という集落があり、また沖縄各地には意外な程に「平良」と付く地名が多く見られます。王となった安徳天皇が自分と縁の深い「平」の文字を、そこら中につけて回ったということですね。
また琉球国王の呼称として「首里天伽那志(すいてんがなし)」という呼び名がありますが、安徳天皇を祀る神社が「水天宮(すいてんぐう)」であることから、「首里天=水天」ということで強い関係性が示唆されています。
ですがこの説には致命的な欠陥があり、国王即位の時期と安徳天皇の年齢が合致せず、創作の域を出ない代物となっています。「中山世鑑」では1187年に即位したとされていますが、安徳天皇が生きていたとすれば10歳程であるため、さすがに天孫氏の仇討ちというのも難しいのではないかと思います。論拠にもなかなかのコジツケ感があり信憑性は非常に薄いですが、4歳にして入水することになった安徳天皇を想えば、そうだったらいいな、という気持ちにはさせられます。
琉球神話・アマミキヨの物語と考察はこちらからどうぞ。
琉球を統一した尚巴志についてはこちらからどうぞ。
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舜天王の参考サイト様
うらそえナビ 舜天・英祖・察度「浦添三大王統」ゆかりの地を訪ねる
http://www.urasoenavi.jp/tokushu/2015101800013/
てんとてん琉球 舜天(しゅんてん)
https://ten-ten.ryukyu/character/538/
沖縄の歴史 古琉球/統一王朝の成立 為朝伝説
http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch2/toitu_5.html
琉球伝説の真相 沖縄の伝説に秘められた謎を解く
伊敷 賢 著 琉球歴史伝承研究所 発行