道元が持ち込んだ座禅による悟りへの道・曹洞宗

道元のイラスト 用語集
日本における曹洞宗の宗祖・道元

曹洞宗は禅宗の流れを汲む鎌倉仏教の一つです

日本における曹洞宗という禅宗の一派は、道元という僧侶が中国から持ち込んだ鎌倉仏教の一つです。当時の曹洞宗では「只管打座(しかんたざ)」と呼ばれる修行方法を提唱しており、これは「ただひたすら無心で座禅を組む」ことを意味しています。目標である「悟りを開く」ことに関しては同じ禅宗の臨済宗と共通していますが、修行方法や信者の身分階級など、異なっている部分も多くあります。

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曹洞宗の特徴

「悟り」を開くことを目的とする禅宗

仏教そのものの開祖となるゴータマ・シッダールタですが、しばしば「釈迦(しゃか)」や「ブッダ」といった敬称でも呼ばれています。「シャカ」は出身の部族名から「シャーキヤ族の聖者」くらいの意味らしいのですが、「ブッダ」とは「悟りを開いた者」という意味があるそうです。つまり仏教という宗教の根本は、修行という自己努力で「悟りを開く」ことから始まった訳です。

その後仏教が教団化され様々な宗派に分かれていきましたが、次第に大衆化が進んでいきました。それは教団が立ち行くために大量の信者を必要としたことが主な理由ですが、その結果「苦しい日々から開放されたい」という人々の気持ちに迎合し、仏教本来の姿である「自己努力で悟りを目指す」という部分が失われてしまった訳です。

そんな中でインド生まれの仏教僧・達磨(だるま)は座禅をメインに据えたマイルドな修行形態を考案し、この考えに従った集団は自ら「禅宗」を名乗りました。後に「禅宗」は様々な分派が興り、多様な修行方法を提唱されていますが、基本的には自己努力、そして自ら「悟りを開く」という部分は共通しています。

達磨
やたらと渋めの禅宗創始者「達磨大師」

ひたすら座禅で「悟り」を目指す只管打座

禅宗の祖となる達磨は「座禅」による修行方法を提唱しましたが、数ある禅宗系宗派の中でもその方法論を色濃く受け継いでいるのが「曹洞宗」です。「座禅」による修行は禅宗全般で取り入れられていますが、曹洞宗は「只管打座」と呼ばれるシンプルな修行法を提唱しました。

「只管」は訓読みすると「ひたすら」となり、「打座」とは単純に座ることを意味するため、「只管打座」とは字面の上でも「ひたすら座禅」という意味となります。同じ禅宗でも臨済宗は禅問答で師匠とイチャイチャやる感じですが、道元が中国から持ち帰った曹洞宗はどちらかと言えばストイックな宗派と言えるかもしれません。

日本における曹洞宗の成り立ちと普及

宗祖・道元の渡海と曹洞宗の輸入

日本における曹洞宗は道元という僧侶が中国から持ち帰ったことで始まっていますが、道元はまず仏教の大学たる比叡山延暦寺で僧侶としてのキャリアをスタートさせています。その後の道元は建仁寺にて臨済宗を学んでいますが、この時師事したのは日本での臨済宗の宗祖・栄西の弟子・明全(みょうぜん)ということで、栄西から見たら道元は孫弟子に当たる関係だったりします。そして道元は本場の禅を学ぼうということで明全と共に海を渡り、南宋で曹洞宗を学び日本へ持ち帰りました。

当時の中国情勢は宋の国に北からモンゴル帝国が押し寄せており、北側の国土を奪われている状態でした。それ故に歴史学では「南宋」という呼称が用いられていますが、この「南宋」とは要するに「南しか国土がない宋」な訳ですね。ちなみに宋に侵略し中国に食い込んだモンゴル帝国は、現地の宗教である禅宗、特に曹洞宗にハマってしまったようで、元寇でお馴染みのフビライ・ハンの治世下でも繁栄を続けています。

元寇についての記事はこちらからどうぞ。

実は道元の弟子達によって曹洞宗が発足

曹洞宗を持ち帰った道元は顕示欲があまりなかったようで、日本における曹洞宗の宗祖であるにも関わらず宗派名を名乗っていません。むしろ禅宗という括りに入れられることすら嫌がり、弟子達にも宗派に関する言論は控えさせるという徹底ぶりだったようです。本来であれば宗派名を利用していくらでも売名できそうなものですが、そういったことに対して嫌悪感を抱くタイプの、いわゆる「気難しい良い人」だったのかもしれません。

それでも道元とその質素で実りのある教義に惹かれ、多くの人々が「只管打座」で己を磨き、信者はどんどんと増えていきました。結局道元は宗派名については一切決めずに亡くなっていますが、その意志を継いだ弟子達によってようやく曹洞宗という教団が発足しています。

民衆や女性に受け入れられた曹洞宗の教義

京都を中心に布教された曹洞宗は幕府周りでも評判が高かったようで、道元は鎌倉幕府の5代執権・北条時頼に招かれて鎌倉でも布教を行っています。もともと鎌倉は栄西によって禅宗ブームが起きていましたが、禅問答という形式をとる臨済宗は全ての人にフィットしていた訳ではなかったようです。ところが曹洞宗の「只管打座」は誰にでもできるキャッチーな教えということで、武士だけでなく民衆の間にも瞬く間に広まりました。

臨済将軍曹洞士民

このフレーズは鎌倉時代当時の禅宗信者の分布を表していますが、臨済宗は将軍御家人といった高級武士、それと対象的に曹洞宗は下級武士・民衆に受け入れられていたことを示しています。やはり分かりやすくとっつきやすい、なおかつ流行りの「禅宗」ということで、余計なやり取りがない分誰にでも親しめる教えとして受容されたのでしょう。また曹洞宗は「男女平等・女性救済」というスローガンを掲げていたため、特に武士階級の女性から圧倒的な支持を受けています。

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