流罪とは罪人を遠方に追放する刑罰です

島流しのイメージイラスト 用語集

流罪とは

罪を犯した人物を都心から追放する刑罰を指します。流罪を受けた人物は政争に敗北した皇族・貴族や女犯をした僧侶であり、一般庶民がこの刑罰を受けたケースは江戸時代になるまではほとんどありません。どちらかと言えば上位階級の人が受けた政治的な意味合いの強い刑罰であり、古代や中世では政治の表舞台に立ったのはほぼ男性ということで、女性がこの刑罰を受けた事例はほぼゼロです。同意語として流刑や配流(はいる)・島流しといった単語があります。

罪の重さは投獄以上・死罪未満

基本的には死罪には至らないまでも、投獄刑よりも罪が重い場合に流罪が適用されていました。現代的な感覚ですと「遠くに行くだけならまぁいいのでは」という気もしますが、平安時代頃までの日本は地方都市がほとんど発展しておらず、首都である京都から離れれば離れるほど都市としての機能は見込めません。そのためお金さえあれば生活用品が揃う都会暮らしに慣れた貴族にとっては、突然の自給自足生活などできるはずもないため、実質的には「緩やかな死罪」とも言える重い刑とされていました。

皇族や貴族を死罪にするのも気が引ける、また有力な氏族である以上は一族からの反発があるといけないということで、すぐに打首にせず「生きるチャンス」を与えたという側面もあります。実質的には死刑とほぼ同等ではあるのですが、首都から追放するだけだから、という理屈で受刑者の一族に言い訳をしている刑であるとも言えます。平安時代初期の嵯峨天皇の頃には死刑そのものが廃止されており、この時期からは最高刑が流罪に設定されています。そのため政で負けた貴族や天皇は次々と流刑を受けていますが、都会の洗練された文化が受刑者を通して各地へと伝えられるなど、地方の発展に寄与した刑罰でもあります。

日本史における流罪の歴史

平安時代までの流罪

「古事記」という日本神話が記された書物にも、かなり序盤の方でスサノオが八百万の神によって高天原から追放されるシーンがあります。これは神様の話なので歴史上の事実ではありませんが、少なくとも「古事記」ができた奈良時代には流罪・追放という刑罰が一般化していたのでしょう。

奈良時代頃から整備された日本の律令では、罪の重さによって近畿からどれくらい離れた地に配流されるかが決まっていました。近流なら300里、中流なら560里、遠流なら1500里と意外なほど細かく規定されており、さらに罪状や現地の状況に応じて流刑地が決定されていたようです。受刑者は流刑地で1年の労役が課されますが、その期間を頑張ってしのげば田地が与えられ、その場所で普通に農民として過ごせるというちょっと希望のある刑罰でした。ですが頑張って農民化した場合も、やはり他の農民と同様に租税を徴収されていたようです。

中世ではほぼ流罪=死罪

先にお伝えした通り嵯峨天皇によって最高刑が流罪に設定されると、政争で敗北した貴族は軒並み遠くに追いやられるようになりました。流刑という名目ではない流刑も多かったようで、有名な菅原道真の大宰府左遷も、現地までの旅費は出ない、さらに現地で着任しても給料なし、というほぼ流刑の左遷もあったようです。この菅原道真や保元の乱で敗北した崇徳上皇などは、流刑という長い期間恨み続ける陰湿な刑で怨霊になったとされ、京都近辺で天災が起こる度に彼らの名前が恐怖とともに叫ばれています。

菅原道真や崇徳上皇など日本三大怨霊についてはこちらからどうぞ。

室町時代頃に差し掛かると、流刑がほぼ死刑と同義になっています。農民達ですら武装しているのが当たり前の時代になると、流刑地へ向かう受刑者は落ち武者狩りの格好の的となりました。しかも護送の人員もこれを助けることはなかったらしく、受刑地まで無事に辿り着くことがほぼ皆無という絶望的な刑だったようです。そして権力者が護送の人員に言い含み、頃合いを見て確実に始末する、という嫌な命令が出されることもあったようです。そんな陰湿なことをするくらいなら最初から死罪でいいのではと思ってしまいますが、死罪を復活させるのはやはり政治家としてのイメージがね・・・、ということでこんな状況が続いていたようです。

江戸時代は島流しがメイン

文化的な違いはあれど、江戸時代頃には日本の本州や九州・四国はどこもかしこもそこそこ発展しており、流刑地としては不適切な状態になっていました。ならば陸で繋がっていない「島」に送ればいいじゃないかということで、江戸期の流罪は「島流し」がメインとなっています。九州の薩摩藩は琉球王国にまで影響力を持っていたため、奄美大島や沖縄諸島にも流刑者を送った記録が残されています。また江戸時代は幕藩体制を採っているため、刑の執行は基本的に藩単位で行われています。当然ながら藩によっては島を持っていないというケースもあるため、そういった藩は辺鄙な山奥が流刑地での強制労働が刑の内容となります。

江戸幕府の直轄地で犯罪を起こした流刑者は、伊豆七島や佐渡ヶ島へ送られたようです。佐渡ヶ島は特に金の採掘が行われていた島であり、受刑者は坑夫としての労働を強いられていました。この金鉱山での労働が異常な程キツかったらしく、「佐渡の金山この世の地獄」といった民謡ができる程だったようです。しかも刑期に期限はなかったようで、力尽きて亡くなるまでコキ使われ続けるという過酷な刑罰でした。

佐渡金山道遊の割戸
「金」という華やかなイメージからかけ離れた強制労働の現場・佐渡金山

流罪から奇跡のカムバックを果たした偉人たち

鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝

ほぼ死罪とも言える流刑を受けても、不屈の精神で過酷な時期を乗り切り成功を収めた人物がいます。その中でも最も極端な例は、日本初の武士政権・鎌倉幕府を樹立した源頼朝でしょう。源義朝が平治の乱で平清盛に敗北すると、義朝の嫡男である頼朝も当然のごとく私刑で死罪となる予定でした。ところが後白河法皇を始めとした貴族・皇族が一斉に頼朝の助命を嘆願すると、さすがの平清盛も折れて伊豆国への流罪に決定しています。頼朝は配流先の伊豆国で本来は監視役の北条時政と結託、そして平氏を打倒するために挙兵し、5年に渡る治承・寿永の乱を経て自身の政権を打ち立てています。

頼朝と平氏打倒の兵を起こした北条時政についてはこちらからどうぞ。

ちなみに頼朝は流罪に処されてはいますが、後白河法皇を始めとした多くの人々の援助があったようで、同じ流刑を受けた人達の中でも比較的恵まれた環境にあったようです。家臣を持つことは禁止されていたようなのですが、頼朝の屋敷に遊びに来る友人といった体裁で実質的には家臣がおり、また行動もそこまで制限されていなかったようです。そのため気付けば監視役の北条時政の娘と恋愛関係を持ち、婚姻にまで至ったことで時政を身内にし、このことが結果的に平氏打倒に繋がっています。

流刑から天皇位に返り咲いた後醍醐天皇

鎌倉時代の末期頃、後醍醐天皇は幕府の打倒を計画しますが、密告者によって通報されると即座に幕府の追手が迫りました。すると後醍醐天皇はすぐに京都からの逃亡を図りますが、ここは敢えなく捕まってしまい捕虜となってしまいます。謀反人とされた後醍醐天皇は隠岐の島への流罪が決まり、始まる前に倒幕計画が破綻したかに見えました。

後醍醐天皇のイラスト
逆転からの逆転を味わった後醍醐天皇

ですが後醍醐天皇やその下に集った武士たちはこのくらいでは挫けません。楠木正成を始めとした「悪党」と呼ばれる反幕府勢力は、各地での抵抗活動をやめず盛んに攻撃を繰り返していました。そのスキに後醍醐天皇は隠岐の島から脱走し、改めて幕府討伐のために挙兵しています。そして後醍醐天皇を討伐するために鎌倉から派遣されてきた足利尊氏をも味方に取り込み、逆に新田義貞が鎌倉に猛攻を仕掛けて攻略、後醍醐天皇は幕府を滅ぼして自らの力で天皇位に返り咲いています。その後建武の新政で朝廷主導の国内統治を目指しますが、結局足利尊氏と反目し逆に京都から追いやられるというオチまで付いており、島流しからの逆転劇からの再逆転というドラマチックな人生を生きています。

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