平安末期に登場した法然と浄土宗
浄土宗は鎌倉時代に興った6つの仏教宗派・鎌倉仏教の一つとされていますが、実際に教団として立ち上がったのは平安時代の最末期となります。浄土宗の主な教義は「専修念仏」、つまり「念仏を唱え続けること」を主眼とし、それによって極楽浄土への道が開かれるとされています。開祖である法然(ほうねん)の下には多くの弟子達が集まっていますが、その中には後に浄土真宗の開祖となった親鸞(しんらん)もいます。
鎌倉仏教とされる6つの宗派の概要はこちらからどうぞ。
法然が開いた浄土宗の特徴
浄土宗は極楽浄土への往生を目指す
「極楽浄土」というものに対して、我々一般の現代人が持っているイメージはなんとなく「天国」ではないでしょうか。実は仏教における極楽浄土は我々のイメージとほぼ一致しているようで、「清潔、綺羅びやか、衣食住に困らない、熱くも寒くもない、いつも綺麗な音色が聞こえる」世界とされています。また常に多くの仏様がいるためいつでも説法を聞くことができ、いつでも満たされた気持ちで過ごせる、そんなパラダイスを目指しましょうというのが浄土宗の主旨な訳です。
極楽への道は「専修念仏」
ではどうやったら極楽浄土に行けるのかということになりますが、法然は「専修念仏」、つまりただひたすら念仏を唱えるという方法を提唱しました。浄土宗の念仏は「南無阿弥陀仏」というフレーズになりますが、「南無」とは帰依すること、つまり頼みにすることを意味しており、要するに「阿弥陀仏さん、助けて!」くらいの意味になります。この念仏を繰り返して阿弥陀仏にすがりながら極楽往生しましょう、という方法論が「専修念仏」という訳です。
受難多めの法然と浄土宗
多くの人々に受け入れられた浄土宗でしたが
ややこしい従来型の仏教宗派とは異なり、「専修念仏」という非常にシンプルな教義を持つ浄土宗には多くの人々が入信しました。平安末期や鎌倉初期は現代と比べて識字率が壊滅的に低かったため、「なむあみだぶつ」と言えればOKの浄土宗は民衆の間でも大好評だったようです。そして浄土宗の加熱っぷりを見た貴族層が興味を示し始めた頃、天台宗や律宗といった既存の仏教宗派が横槍を入れ始めました。
後鳥羽上皇や比叡山延暦寺によって停止された専修念仏
教団として立ち上がった浄土宗は京都の比叡山延暦寺、そして奈良の興福寺といった旧来の大寺院から目の敵にされました。比叡山延暦寺の僧兵は専修念仏の停止を迫って各地で暴れだし、また興福寺は朝廷とのコネクションを使い、院政で天皇以上の権限を持っていた後鳥羽上皇を通じて浄土宗の活動を制限しています。またこの出来事に関連して指導者たる僧侶は流刑に処され、法然本人は四国の讃岐国(香川県)に、そして弟子達も同じ場所ではなく日本各地へ散り散りに飛ばされました。この後も比叡山延暦寺は浄土宗に対してハラスを継続、朝廷を仲立ちにして法然の弟子をたびたび流刑にし、また僧兵による寺院や廟所の破壊といったかなり荒っぽいこともしていたようです。
浄土宗と弟子達のその後
それぞれの道を歩んだ法然の弟子達
浄土宗は多くの民衆に受け入れられましたが、開祖である法然のもとに多くの弟子達も集いました。法然が提唱した「専修念仏」は弟子達によって様々な解釈がなされ、同じ浄土宗の中でもそれぞれオリジナリティを持った細かな流派が誕生しています。また後鳥羽上皇によって流罪にされた弟子達も逞しく生き延び、流刑先で教えを広めたことで独自の流派を立ち上げたりもしています。浄土宗という幹から枝分かれした主な流派は浄土四流と呼ばれていますが、それ以外にも有力な派閥があり、その一つが後に浄土真宗の開祖となる親鸞の集団でした。
親鸞の弟子達が浄土真宗を教団化
親鸞上人は一般的に浄土真宗を立ち上げた人物として知られていますが、実際は自身で教団を立ち上げるつもりなど毛頭なく、あくまで法然と浄土宗の教えを発展させ普及させたに過ぎません。むしろ親鸞は法然の思想に心酔していたようで、「専修念仏」という浄土宗のベースはキッチリと守り続けていました。ですが親鸞の弟子達や子供(浄土真宗は妻帯可です)は浄土宗の一派として活動するのに物足りなさを感じたのか、独自の教団として浄土真宗を立ち上げています。教団化された浄土真宗は低迷期を経て戦国時代に大流行し、気付けば戦国大名と並ぶ武闘派集団へと変化していますが、法然や親鸞が目指した「人々の救済」からはやや離れてしまった感もあります。
親鸞の浄土真宗についてはこちらからどうぞ。
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