琉球王府を揺るがした反乱 | 護佐丸・阿麻和利の乱

阿麻和利の勝連城跡地 琉球史
世界遺産にもなっている阿麻和利の勝連城跡地

琉球王府最大の危機

皆さんは、琉球王国が成立した後に起こった反乱のことを知っていますか?琉球王国が成立したとはいえ、その支配体制は盤石なものではありませんでした。と言うのも、尚巴志王の後を継いだ尚忠王は5年、その次の尚思達(しょうしたつ)王も5年、その後継者である尚金福(しょうきんぷく)王は3年と、短い間に代替わりが続いたのです。

それに追い打ちをかけるように、尚金福王の世子である志魯(しろ)と王弟の布里(ふり)が後継を巡り内乱が勃発します(志魯・布里の乱)。この内乱の結果、首里城は焼失し、両名共に討死するという事態を招きました。これにより、即位したのが尚泰久(しょうたいきゅう)王でした。

王は、国内安定を図るために有力按司たちとの結び付きを強め、この難局を乗り切ろうと試みます。今回は、その結果はどうなったのかを見ていきましょう。

重臣と若き有力按司

尚巴志を支えた老将・護佐丸

尚泰久が即位した頃、中城(なかぐすく/沖縄県中部の村)は、護佐丸(ごさまる)という老将が治めていました。彼は、伝説的な英雄として知られた人物でした。琉球王国初代国王である尚思紹(しょうししょう/尚巴志の父)王から六代に渡って仕え、琉球統一の戦だけでなく、領地経営に関しても手腕を発揮し、王国の繁栄を支えた名将です。特に、彼が尚家に仕えて最初に参戦した戦であった、北山攻めで大活躍を見せます。その功績が認められ、彼は一時、北山地域の監守役として今帰仁城に残ったと言います。

信頼の厚かった護佐丸は、尚巴志の命令を受けて中城へと移ってきます。その命令とは、勝連(かつれん/沖縄県中部うるま市の地域)の新興勢力であった阿麻和利を牽制することでした。尚巴志は、既に阿麻和利という人物の野心を見抜いていたのかもしれません。また、阿麻和利は有能な人物で、日本や東アジアとの貿易を盛んに行い、着々と力を着けていました。

勝連城の城址

琉球を統一したとは言え、まだまだ有力な按司たちがしのぎを削っている状況に、尚巴志は危機感を抱いていたのではないでしょうか。そこで、このような状況を抑えるためには、有力な按司の一人であり、腹心でもある英雄、護佐丸という男の存在に頼らざるを得なかったと言った方が良いのかもしれません。

護佐丸は、阿麻和利の前に立ちはだかるように中城城を増築し、勝連の動向に睨みを利かせるようになりました。

野心溢れる勝連の若按司・阿麻和利

中城湾(なかぐすくわん/沖縄本島の南東部に広がる海域)を臨む丘の上に、阿麻和利という若い按司が拠点にした勝連城は立っています。

この阿麻和利という若按司の前半生は伝承としか残っておらず、後半生としては、琉球王府の正史である『球陽』などに見られ、大変野心家で冷酷な人物として描かれています。

阿麻和利の若い頃の話は別の機会に譲るとして、この若き領主はどのようにして琉球王府が恐れるほどにまで力を付けてきたのでしょうか。

一番は、先ほども述べましたが、大和(琉球の人々が日本を指す時の呼び名)や東アジア諸国との貿易でした。勝連城跡からは、おびただしい数の中国製陶磁器や、大和製品のかけらが出土しており、往時の繁栄をうかがい知ることが出来たそうです。それに加え、彼は稲作や麦作といった農業を推奨し、税の減免を行い領民の心を掴んでいきます。この人心掌握術は、まさに尚巴志の手法と同じだったのです。尚巴志が阿麻和利を危険視したのは、青年期の自分を重ね合わせたからかもしれません。

尚巴志亡き後の琉球王府は、相次ぐ代替わりと内乱で力を失いつつありました。その中で、貿易で力を増し、領民からも支持の高い阿麻和利は大きな脅威であったことは間違いありません。下手をすれば、王府の混乱どころか阿麻和利の手によって王府は討たれてしまう可能性もあったと思われます。

そこで、当時の王、尚泰久は娘である百度踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせます。姻戚関係を結ぶことで、有力な按司である阿麻和利を王家側に取り込むことで、国内を治めていこうとしたのです。

伝承では、ガマ(洞窟)に捨てられていた子供であったと言われている阿麻和利が、遂には王家の一員にまで上り詰めました。この出来事により、諸按司たちは阿麻和利に一目を置くと同時に、一気に勢力を強めた阿麻和利に恐怖したかもしれません。

阿麻和利の野望と護佐丸の忠心

護佐丸・阿麻和利の乱勃発

護佐丸はその頃、阿麻和利が王を殺し、自らが王になろうとしているという野心を見抜いていたと思われます。と言うのも、彼は中城城に兵馬を集め、訓練を怠らず、終始警戒を解こうはしなかったのです。阿麻和利もこの歴戦の英雄が鍛え上げた兵を相手にすることを避け、手を出すことが出来ずにいました。

そこで阿麻和利は一計を案じ、変装をして首里城へと向かいます。そして、首里城に着くと、護佐丸が兵馬を鍛えて反乱を企んでいると讒訴(ざんそ/人を陥れる訴え)します。尚泰久王はその訴えを疑い、使者を護佐丸の元へと派遣しました。

しかし、そこで使者が見たのは、訴え通りに中城城に兵馬が集まり、訓練をしている光景でした。慌てて首里城に戻った使者は、尚泰久王へありのままを伝え、「護佐丸に反心あり」と知らせます。王は驚き、有力な按司であり、義理の息子でもある阿麻和利を護佐丸討伐軍の総大将として、中城城へ向かわせます。

その頃、護佐丸は城内にある観月台で月見の宴の最中でしたが、そこの王府の旗を掲げた軍勢がくるのを見つけます。歴戦の猛者である護佐丸は、自身が罠に嵌められたことに気付いたと思われます。ですが忠誠心の厚い護佐丸は、申し開きをすることもせず、王府の軍と刃を交えることを拒み、王府への忠誠心を見せるため、妻子と共に自害して果てます。

こうして、野心溢れる若按司、阿麻和利は一番目障りであった建国の英雄を討ち果たすことに成功したのです。有力な按司の中でも、特に力を持っていた護佐丸がいなくなった今、阿麻和利に対抗出来る者はいなくなったのです。

護佐丸の墓所
護佐丸の墓所

阿麻和利の誤算

こうして、目の上の瘤を取り除くことに成功した阿麻和利は、いよいよ自身の野望を遂げようと動き出します。

護佐丸を討ち果たし、勝連城に凱旋した阿麻和利は、次に首里城への侵攻を画策し始めます。今や自分に渡り合える有力按司はいないと考えていたのでしょう。

しかし、この慢心が命取りとなってしまうことに阿麻和利はまだ、気付いていませんでした。

この首里城攻めの計画を耳にしていた人物がいたのです。その人物とは、阿麻和利の妻である百度踏揚の従者であった、大城賢雄(おおぐすくけんゆう)でした。彼は、その風貌や武勇から「鬼大城(おにおおぐすく/うにうふぐしく)」と呼ばれていました。鬼大城は、もともと越来王子(ごえくおうじ)と呼ばれていた尚泰久に仕えていた武将で、王の信頼が厚い人物でした。

彼は、この計画を王府へ伝えるため、夜中に百度踏揚を連れて勝連城を脱出します。そして、その一報を尚泰久に伝えると、王は鬼大城を阿麻和利討伐の総大将に任命します。

王府軍を率いて勝連城へ向かった鬼大城でしたが、阿麻和利の巧みな戦術と勝連城の堅固な造りの前に苦戦してしまいます。しかし、鬼大城は女装して城内に忍び込むという奇策を用いて、阿麻和利が油断している隙に彼を討ち果たすことに成功したのです。

こうして、琉球王府を揺るがした反乱、護佐丸・阿麻和利の乱は、当時、最も力を持った按司二人の死をもって終焉したのです。

中城城の忠魂碑
現代の中城城には日露戦争の戦没者を祀る忠魂碑も

まとめ

如何だったでしょうか。琉球統一を果たした尚家でしたが、その支配基盤はまだ脆く、いつ有力な按司に攻め滅ぼされてもおかしくない状況でした。その危機を回避しようと忠義を尽くそうとした護佐丸と、己の野心を遂げんとして躍動した阿麻和利。最終的には両按司が倒れたことにより、王府を揺るがすほどの力を持った按司はいなくなりました。

このような事実があるため、「護佐丸・阿麻和利の乱」は有力な按司である二人を、潰し合わせるために王府が企んだのではないかとも言われています。

こうして、反乱の芽を摘んだ琉球王府は、この後に安泰したかというとそうではありません。次第に琉球王府には影が忍び寄りつつあったのですが、そのお話はまた、次の機会にさせていただきたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

<参考サイト様>

沖縄の世界遺産 中城城跡 世界遺産「中城城跡」について

https://www.nakagusuku-jo.jp/heritage

日本の国内旅行ガイド600箇所 勝連城と阿麻和利とは~鬼大城や展望も素晴らしい勝連城の見どころ【沖縄の世界遺産】

https://traveltoku.com/amawari/

戦国武将列伝Ω 武将辞典 安慶名城の安慶名大川按司と知花城の越来賢雄(鬼大城の墓)

https://senjp.com/agenajyou/

JCC出版 絵で解る琉球王国 歴史と人物