才気溢れる若按司・阿麻和利
琉球史の中で、誰もが知っているという悪役がいます。護佐丸という英雄を、自身の野心を果たすために陥れた、勝連の若き按司・阿麻和利(あまわり)です。正史である『球陽』によれば、才気はあれど徳は無く、欲が深く、琉球王府の転覆を企んだ危険人物として描かれています。
しかし、正史というものは、いつでも勝者の正当性を知らせしめるために書かれたものと言えます。そこで、今回はこの阿麻和利という、悪役にされた若き按司の本当の姿を解き明かしていきたいと思います。
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謎に包まれた麒麟児
ガマに捨てられた子から人望を集める青年へ
阿麻和利の幼少時代はほとんど記録が残っておらず、村史や言い伝えの中に伝承として残っているだけに過ぎません。まずは、この伝承の中から阿麻和利という人物を見ていくことにしましょう。
阿麻和利は、童名(わらびなー)を加那(カナー)と言い、嘉手納町(かでなちょう/沖縄県中部の町)屋良(やら)に、屋良城主大川按司(屋良城の武士という説もある)と農民の娘との間に生まれたとされています。幼い頃から体が弱く、10歳になっても歩くことが出来なかったため、按司の名を汚すとしてガマへと捨てられそうです。その後は、母親がこっそりとそのガマで阿麻和利を育てていたと伝わっています。
そんな過酷な環境の中、彼はある生き物の姿に感銘を受けます。それは、蜘蛛が糸を張って巣を作り、獲物を捕まえる姿でした。阿麻和利は、その姿から着想を得て打ち網を発明したと言われています。
阿麻和利は10歳という年齢でガマに捨てられながらも、山中でたくましく生き延びていましたが、体力が回復すると暮らしていた山を降りて勝連という地へと移り住みました。彼は勝連城の馬の飼料集めに精を出し、次第に勝連の武士や城主に認められるようになったと言います。また、領民たちの農業を手伝ったり、自らが発明した打ち網を与えたりしたことで、領民たちからも信頼を得るようになっていきます。
その頃、勝連を治めていたのは、茂知附(もちづき)按司という男でしたが、彼は領民のことは考えず、酒に溺れ、政治を怠っていたと伝わっています。更に、その身勝手な態度から家臣からも嫌われていたようです。この茂知附味が勝連を治めていたことが、阿麻和利が歴史の表舞台に立つきっかけとなります。阿麻和利に人生の転換点がやってくるのは、まだ10代後半の頃でした。
躍動する若按司
勝連城の武士や領民たちにも慕われ、人望を集めていた阿麻和利のもとに、勝連城主・茂知附按司の家臣達がやって来ます。彼らは、阿麻和利にクーデターを持ちかけてきたのです。領民を苦しめる悪政を行っていた茂知附按司を、阿麻和利は討ち果たすことを決心します。
彼は、領民たちに松明を持たせて勝連城へ向かって歩くように指示しました。宴を開いていた茂知附按司は、その光景を見て軍勢が攻めてきたと誤解し、怯んでしまいます。その様子を見た阿麻和利は、按司を城壁から突き落としたとされています。
また別の説では、茂知附按司に御神酒を献上する振りをして、領民たちと共に城内に侵入しすると、酒樽に隠してあった武器を取り、側近と茂知附按司を討ち取ったとされています。その際に、阿麻和利は「いま、降伏する者は一命を助けるが、降伏せぬ者は首をはねて晒す」と叫んだため、その場にいた全員がひれ伏して降伏したと言います。こうして領民を味方につけた阿麻和利は、勝連の武士たちと領民に推される形で、わずか19歳(諸説あり)という若さで勝連城の城主となったのです。
その後、阿麻和利はその才能を遺憾なく発揮していきます。まず彼は、稲作や麦作を奨励し、農業の発展に努めました。この手法は、琉球王国を作り上げた尚巴志とほとんど同じものでした。更に、阿麻和利は勝連城下に広がる中城湾を利用し、大和や東南アジア諸国との貿易を活発に行いました。これにより、勝連は京都や鎌倉に例えられるほどに発展していったのです。
肝高の阿麻和利
「おもろ」に見る勝連
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琉球史を語る上で、琉球王府が編纂した正史である『中山世鑑』や『球陽』の他に、とても重要なものがあります。それは「おもろ」と呼ばれる、沖縄の古い歌謡です。もっぱらノロ(巫女)や神職が詠んだものと言われますが、民衆が詠んだものも数多くあり、沖縄の万葉集のようなものであると捉えられています。この「おもろ」には、勝連の繁栄を詠んだ唄が収められており、この唄を通して勝連がどれほど繁栄していたかが表現されています。
「勝連わ 何にぎや 譬ゑる(かつれんは なおにぎや たとえる)
大和の 鎌倉に 譬ゑる (やまとの かまくらに たとえる)
肝高わ 何にぎや 譬ゑる(きむたかは なおにぎや たとえる)
大和の 鎌倉に 譬ゑる (やまとの かまくらに たとえる)」
⬇
「勝連の賑わいは一体、何に例えることができよう。それは大和の鎌倉のようだ。この気高き勝連は一体、何に例えることができよう。それは大和の鎌倉のようだ」
「肝高(きむたか)」という言葉は、「誇り高い、気高い」という意味で用いられており、同時に勝連地域及び勝連城を指す美称としても使用されています。また勝連の地を幕府の本拠地として栄えた鎌倉並であるとし、そしてその繁栄を築き上げた按司・阿麻和利を称えています。当時の勝連の文化水準の高さ、また繁栄した街の賑わいは、王府のある首里にも匹敵していたのではないでしょうか。いかに当時の勝連の人々が繁栄を謳歌し、また阿麻和利に対して敬意を持っていたかが窺い知れる唄ですね。
「おもろ」に見る阿麻和利
阿麻和利と言えば「悪役」、というイメージを植え付けたのは、王府が作った正史でした。王をクーデターによって倒し、自らが王になろうと画策した男という阿麻和利像を作ることで、自らの王朝を正当化しようとしたのかもしれません。
ですが近年、その悪役であったはずの阿麻和利の評価は変化しつつあります。その評価を変えたのが、先ほどもご紹介した「おもろ」の存在なのです。果たして、阿麻和利は民衆からどのように思われていたのか、「おもろ」に描かれる阿麻和利の姿を見ていきましょう。
「勝連の阿麻和利 (かつれんのあまわり)
十百歳 ちよわれ(とひゃくさ ちよわれ)
肝高の阿麻和利 (きむたかのあまわり)
勝連と 似せて (かつれんとにせて)
肝高と 似せて (きむたかとにせて)」
⬇
「勝連の阿麻和利様、気高き阿麻和利様よ。千年でも末長く過ごし、この勝連を治め給え。気高き阿麻和利様には、この気高き勝連こそが相応しいのです。」
この唄から感じられる領民たちの気持ちは、阿麻和利への尊敬と信頼しかありません。この唄が本当に領民たちによって作られたのなら、阿麻和利が領民から嫌われていたという正史との大きな矛盾があることになります。
この他にも、幾つもの勝連や阿麻和利に関する「おもろ」は残されています。しかし、その中で阿麻和利を悪し様に唄ったものはありません。むしろ阿麻和利を褒め称え、領主として仰ぐことを誇りに感じているものばかりです。歴史を記すのは勝者であり、当然勝ち残った人とその後継者が「正義」として描かれるでしょう。琉球王府にとって阿麻和利という存在が自らを脅かすものであったため、むりやり汚名を着せて悪役とした可能性はかなり高いものと思われます。
まとめ
琉球で悪名高き男として長年語られてきた阿麻和利ですが、「おもろ」で唄われるその姿は勝連の人々の尊敬を集める人物でした。そして琉球王国を作った尚巴志や、琉球随一の名将・護佐丸にも、決して引けを取らない英雄だったのかもしれません。ただ最終的に敗北したというだけで歴史的な評価が逆転してしまうのは、残念ながら世界史レベルで見てもごく当たり前の出来事です。
2021年現在、沖縄ではうるま市(沖縄県中部の都市。勝連を含む)の中高生が出演する組踊で「肝高の阿麻和利」として公演され、全国で高い評価を得ています。悪役として一方的な評価を受けていた阿麻和利が、その評価とは違った側面を持つ人物であることを少しでも知ってもらえたのなら幸いです。
先方にて埋め込みを許可していないようなので、リンクからYoutubeにてどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=YXs_1wO2Lq4&t=395s
いかがだったでしょうか。琉球史には、多くの魅力的な人物が溢れている事をお分かりいただけたでしょうか。また次回、皆様の知らない琉球の歴史に光を当て、その面白さを知っていただければと思っています。最後までお読み頂きありがとうございました。
阿麻和利の素顔・参考サイト様
日本の国内旅行ガイド600箇所 勝連城と阿麻和利とは~鬼大城や展望も素晴らしい勝連城の見どころ【沖縄の世界遺産】
https://traveltoku.com/amawari/
攻城団ブログ 琉球版・麒麟が来る⁉︎阿麻和利の居城・勝連グスクを取材してきました
NUA WORLD 文学散歩【第26回】「おもろさうし」ゆかりの地 沖縄県うるま市