与那国を治めた女性村長・サンアイイソバ

ガジュマルの大木 琉球史
ガジュマルの大木

悲しい歴史を持つ島に立つガジュマルのように

皆さんは、サンアイイソバという女性のことを知っているでしょうか。沖縄が大好きという方でも、分からないと答える方が多いのではないでしょうか。知っているという方は、色々な角度から沖縄を見ておられるのだなと個人的には考えています。

サンアイイソバは、1500年頃に与那国島(沖縄本島の南西に位置する、日本最西端の島)を治めていたとされる女性村長です。しかし、彼女は実在の人物であるかどうかは分かっていない、伝説上の人物なのです。

しかし、与那国島にはサンアイイソバに関する伝説が多く残されており、与那国島の人々に慕われている人物です。彼女はどのような人物で、どの様なことを行ったのでしょうか。今回はそれを一緒に見ていきたいと思います。

与那国島の悲しい歴史

与那国島と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。日本で最後に夕焼けが見えるスポットであったり、人工的に造られたように見える海底遺跡など、その豊かで美しい自然を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

その自然豊かで美しい島に、悲しい歴史があったことを知っているでしょうか。その悲しい歴史とは、「久部良割(くぶらばり)」と「人升田(とぅんぐだ)」という制度のことです。この制度はどちらも人口増加を抑制するためのものと伝わっています。

「久部良割」とは、幅が3~4メートル、深さが7~8メートルもある岩の割れ目を指します。ある日突然、島中の妊婦がここに集められて、一人一人その岩の割れ目を跳び越えるように命令されたそうです。体力がない妊婦はその割れ目に落ちて転落死し、運よく跳び越えられたとしても、流産は免れなかったと言います。

「人升田」とは、男性に対する試練で、緊急招集の鐘が鳴らされ、島の中央部の田んぼに集まるように命令が出ます。この招集に遅れてきた者や制限時間内に田んぼに入れなかった者はその場で斬り殺されるという残酷なものでした。

この制度の背景にあるのは、与那国島の食料事情でした。小さい島の中で人口が増えることは、食糧危機に直結したのです。この制度の存在は、当時の与那国島の食糧事情が極めて厳しかったことを想像させます。

女性村長サンアイイソバの誕生

サンアイイソバの生没年は分かっていません。そのため、伝説上の人物ではないかと言われています。その体格は、当時の女性のものをはるかに凌ぐものでもありました。言い伝えでは、身長八尺(約2メートル40センチ)、肩幅が三尺(約90センチ)もあったと言い、その体格の良さも伝説上の人物であることを想起させる原因でしょう。

サンアイイソバの「サンアイ」とは、「ガジュマル(クワ科の常緑高木)」を意味しており、ガジュマルのたくさん生える村・サンアイ村のことを意味していたと言います。その村の「イソバ」さんということで、「サンアイイソバ」と呼ばれていたと伝わります。また、イソバは、尊敬の念を込めて、イソバアブとも呼ばれていました。この「アブ」とは、母親を意味する阿母(あぶ)のことで、与那国島の人々から親しまれていたことが分かります。

イソバは、5歳にして同じ歳の子どもたちよりもはるかに大きな体格をしていたため、大人に混じって働いていたと言います。13歳になる頃には、大人顔負けの働き振りが認められ、村の問題を話し合うための委員会とも言える「村吟味」の一員となります。

イソバは、サンアイ村の村長の下で未開拓地の開墾事業に従事しており、誰よりもよく働き、大きな成果も上げていたため、村人からの信頼を獲得していました。そこで、村長は次期村長として、イソバのしてはどうかと村人に問います。すると村人はこぞってその提案に賛成し、イソバを次期村長にすることを決めます。ところがイソバはそれを丁寧に断ってしまいます。イソバがいくら断っても、村人たちは何としてでも村長になって欲しかったため、半ば無理やりにイソバを村長にする儀式を行います。そこまでするのであれば、とイソバは村人の意思を受け入れ、村長となるのです。

宮古軍の来襲

イソバが村長となってから、大きな事件が起こります。1500年、八重山諸島を巻き込んだ大きな反乱である、オヤケアカハチの乱です。乱が勃発した当初から与那国島は、この反乱に一切関わらない姿勢をとっていました。ところが、アヤケアカハチを討ち果たした宮古島の軍勢は、八重山諸島で唯一独立を保っていた与那国島をもその勢力下に置こうと考えます。そこで、アカハチを討ち取った勢いそのまま、仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみや)の息子である仲屋金盛(なかやかなもり)を総大将として、与那国島へと侵攻します。

オケヤアカハチの乱についてはこちらからどうぞ。

その当時、与那国島はイソバの4人の兄弟たちが指導者として村々を治めていました。宮古島の軍勢は、与那国島に上陸するとそれらの村へと襲い掛かります。優位に戦いを進めた宮古の軍勢は、サンアイ村に向かう途上でイソバと鉢合わせします。宮古の軍勢はイソバの体格に怯んでしまったと言います。イソバはその剛力で、金盛を捕らえると兄弟の安否を尋ねます。金盛が「殺した」答えると、イソバは金盛を股裂きにしようと力を込めました。恐怖におののいた金盛は前言を撤回し、「生け捕りにした」と嘘を叫びます。それを聞くとイソバは金盛を投げ捨て、兄弟の村へ向かいました。この隙に宮古の軍勢は再び、村々への侵攻を開始したのです。

兄弟の村へ着いたイソバが見たのは焼き払われた集落と、兄弟が殺されたという事実でした。これに怒り狂ったイソバは、軍勢を集めると反撃を開始します。そのあまりの強さに、宮古の軍勢は与那国島侵攻を諦め、大慌てで撤退したと言います。与那国島の危機を救ったイソバでしたが、自らの兄弟と村人たちを亡くしたことに心を痛めたと伝わっています。

イソバは実在したのか?

このように、伝説として語り継がれているため、サンアイイソバは実在の人物ではないというのが定説となっています。しかし、18世紀に編纂された『宮古島旧記』という書物には、サンアイイソバの名前は記されてはいませんが、1500年に宮古軍が与那国島へ侵攻したものの、失敗に終わったことが記されています。これは、イソバがいたと言う確証とはなりませんが、宮古の軍勢が与那国侵攻に失敗したことは事実であり、その際に与那国には宮古の軍勢を退けるほどの指導者がいたことは確かだと言えます。

また、与那国島の中央部にあるティンダハナタの丘は、イソバが住んでいた場所とされ、またイソバの墓だと伝えられている場所もあります。イソバは、実在したという根拠がほとんどないため、ティンダハナタは彼女が実在していたのではないかという痕跡が残る、非常に貴重な場所だと言えるでしょう。研究が進めば、イソバが実在の人物なのかどうかも分かってくるかもしれません。

まとめ

サンアイイソバは、その体格や剛力などの話が先に立ち、伝説上の人物だとするのが正しいのではないかと思う方が多いでしょう。ですが、イソバの伝説の中で一つ、本当のイソバ像を表しているのではないかというものがあります。外敵を寄せ付けないために、大きな草鞋を作り海に流すことで、与那国島には巨人が住んでいると思わせたという逸話です。この知恵こそがイソバの本当の力だったのではないでしょうか。こう考えると、イソバの大きな体躯の話も、敵を怯ませるものであったと考えられはしないでしょうか。

サンアイイソバは、伝説に見られるような巨人ではなく、当時の一般的な女性の姿で与那国島を取り仕切っていたのかもしれません。

如何だったでしょうか。悲しい歴史を持つ島でもあった与那国島で、与那国の人々を救おうと人一倍働いたとされるサンアイイソバという素晴らしい指導者がいたことを知っていただけたと思います。この様に、琉球史の中には英雄と呼ばれる人物が、まだまだ綺羅星のごとく存在しています。これからも、そのような人物たちを紹介していきたいと思っています。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

サンアイイソバ・参考サイト様

どなんメディア サンアイイソバ与那国島の英雄だったパワフルな女性のお話

https://yonaguni-media.com/knowledge/sanaiisoba/

日本珍スポット百景 重税のために殺人が行われていた場所「久部良バリ」【与那国島】

https://bqspot.com/okinawa/yonaguni/654

沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道 サンアイ・イソバの碑・与那国島に君臨した女酋長である。

https://17020526.at.webry.info/201912/article_1.html