奈良時代 道鏡は天皇位を望まない | 悪人に仕立て上げられた平和を望む僧侶

奈良時代の人物録

悪人?善人?異色の出世を果たした僧侶・道鏡

道鏡は奈良時代特有の仏教と政治が入り混じった背景の中で、名門出身ではないにも関わらず尋常ではない程のスピード出世を成し遂げた人物です。天皇位の簒奪を目論んだという理由で日本三大悪人に数えられたりもしていますが、この日本三大悪人という概念は明治時代の皇国史観によるもので、研究が進んだ今現在では道鏡が天皇位の簒奪を目論んだかどうかすら疑問視されています。勉強不足な筆者の視点からすれば道鏡は、パワフルな称徳天皇の巻き添えを食ってしまった感すらあります。

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それではまず、道鏡の背景や日本史に名前が登場してくる場面から見てみましょう。

名族物部氏の一族・弓削氏

朝廷軍が使う弓を作る部署・弓削部を管理していた氏族が弓削氏となります。弓削氏は飛鳥時代に屈指の名門となっていた物部氏から分かれた一族となっており、丁未の乱で倒れた物部守屋の子孫にあたります。

道鏡は若い頃に仏教の一宗派である法相宗の僧侶に弟子入りし、また奈良東大寺開山の良弁からサンスクリット語を学びました。奈良時代には国政と仏教は切っても切れない関係だったため、優秀な僧侶だった道鏡は宮中の仏殿に入ることを許されています。

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孝謙上皇を看病したら気に入られる

道鏡が宮中に入ることを許された頃、孝謙上皇という前代の天皇が病気のため寝込んでいる状態でした。孝謙上皇は聖武天皇の長女にあたり、文武天皇から続く由緒正しい血統の持ち主です。孝謙上皇は母である光明皇后の身の回りの世話をするために、淳仁天皇に天皇位を譲渡する形で上皇となっています。

この系譜図は、ウィキペディアの聖武天皇の系譜からの転載となっております。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

病気がちだった孝謙上皇を看病するための僧侶として、看護にあたった人物が道鏡でした。孝謙上皇は自身を熱心に看病する道鏡を気に入ってしまい、また道鏡が説く仏教観に深く感じ入ることになります。

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藤原仲麻呂の乱

藤原仲麻呂は天武天皇の后となっていた光明皇后を叔母に持つ、藤原南家の名門貴族として生まれます。仲麻呂は若い頃から秀才ぶりを発揮し、光明皇后の後ろ盾もあって朝廷で順調な昇進を遂げ、朝廷で臣下として初の太政大臣に就任しています。

仲麻呂は孝謙上皇と道鏡のあまりに親密な関係を嫌がり、淳仁天皇を通して道鏡を遠ざけるように伝えました。ところが道鏡を気に入っていた孝謙上皇は淳仁天皇や仲麻呂の言い分に激怒し、淳仁天皇から権限を奪うという宣言をします。どういう言い方だったのかはわからないのですが、指摘を受けただけで天皇位を奪う宣言とは、孝謙上皇もなかなかパワフルな人物ですよね。天皇から権限を奪うなんてことはそうそうできることではないのですが、文武天皇→聖武天皇と続く正当な血統であることもあり、傍流である淳仁天皇に対する敬意があまりなかったのだと思われます。

この道鏡との親密さに指摘を受けたことにより、孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂の間に深い対立が生まれてしまいます。強気な孝謙上皇による攻撃を恐れた藤原仲麻呂は、先に軍事権を握ってのクーデターを企みますが、孝謙上皇側にバレて先に朝廷軍を押さえられてしまいます。謀反人とされてしまった仲麻呂は平城京を脱出し兵を集めて上皇との戦いに臨みますが、あっさりと朝廷軍に敗北して処刑されてしまいます。

孝謙上皇が重祚し称徳天皇に

藤原仲麻呂が謀反人として処刑されたことにより、淳仁天皇は自身の後ろ盾を失ってしまいました。そして孝謙上皇は追い打ちをかけるように在位中の淳仁天皇に対して、藤原仲麻呂と縁が深かったことを理由にして廃位を宣言します。すでに藤原仲麻呂という後ろ盾を失っていた淳仁天皇は孝謙上皇に素直に従い、淡路島への流罪を受け入れます。

こうして淳仁天皇を廃位することに成功した孝謙上皇は、称徳天皇と名を変えて自ら天皇に返り咲きました。ちなみに重祚とは、一度なんらかの事情で天皇位から退いた人物が、もう一度即位することを指します。日本では重祚した天皇は、飛鳥時代の斉明天皇と称徳天皇の2人だけです。

太政大臣就任と法王の称号を得る

称徳天皇は天皇に復位すると、まずは藤原仲麻呂が亡くなって空位となっていた太政大臣に道鏡を任命しました。また道鏡の弟・弓削浄人や弓削一族もついでに重用して高い官職を与え、道鏡の政界での基盤を作り上げます。また称徳天皇は仏教勢力を統治するため、道鏡に法王という称号を与え、さらに僧侶だけが就ける大臣職を設けて道鏡のサポート体制を整えます。

墾田永年私財法の禁

墾田永年私財法とは

723年に発布された三世一身法は国内の耕地面積増加にあまり貢献しなかったため、743年に聖武天皇により改めて墾田永年私財法が発布されました。

墾田永年私財法では開墾すればするほど資産を増やせます

三世一身法は農民が農地を新たに開墾した場合に、開墾した人の孫の代までは自分の土地として所有できるという法令でした。しかし三世一身法では当然ながら孫の代が終われば国の土地として取り上げられてしまうため、農民の意欲をあまり刺激することなく大した成果があがっていませんでした。それに比べて墾田永年私財法では、新たに開墾した土地は半永久的に私有地にできる法令です。開墾された土地も課税の対象となるのですが、耕せば耕す程自分の資産が増えるという法令は魅力的だったでしょう。もちろん朝廷にとっても耕地面積増=税収増加となるため、農民たちと朝廷共にメリットのある法令のはずでした。

ですが実際に墾田永年私財法が施行されると、開墾を奨励する側であるはずの貴族たちが人を使って私有地を増やし始めます。もちろん農民による開墾も進んだのでしょうが、実際には貴族達の私有地ばかりが増えることとなりました。つまり墾田永年私財法は、結果的に貴族による私有地の拡大を認めてしまった法令となります。

私有地の所持を禁止した道鏡

道鏡が太政大臣禅師に就いた頃、貴族による開墾が盛んに行われていました。見境なく自身の土地を増やそうとする欲深な貴族たちを見かね、道鏡は開墾地の私有を認めないという命令を太政大臣の権力で下します。政治のトップである太政大臣からの私有地拡大の禁止令により私有地の拡大は止んだのですが、私有地を増やしたい貴族たちからはさぞ恨まれたことでしょう。

宇佐八幡宮神託事件

道鏡はすでに政治と仏教の頂点に立ち、天皇の他に並び立てる人間など居ない状態となっていました。そんな折に九州にある宇佐八幡宮という神社から、道鏡の弟・弓削浄人を通じてとある神託が奏上されます。その神託の内容は、「道鏡が天皇になったならば天下は泰平」という、あまりに道鏡に都合が良すぎるものでした。そして宇佐八幡宮が確認のために人を寄越すように要求すると、称徳天皇は和気清麻呂という人物を勅使として九州に派遣しました。

和気清麻呂は宇佐八幡宮に着くと、禰宜にもう一度神託を受けるように伝えますが、禰宜はこれをなぜか拒否します。禰宜を問いただすと最初の神託は嘘だったことを白状したため、和気清麻呂は平城京へ戻り嘘だったことを称徳天皇に報告します。しかし称徳天皇は道鏡を天皇にしたがっていたため報告に激怒し、勢い余って和気清麻呂を左遷してしまいました。

和気清麻呂はモラルに従って当たり前のことと報告をしただけなのですが、道鏡を気に入りすぎていた称徳天皇にとっては処罰に値することだったのでしょう。ひょっとしたら最初の神託も、称徳天皇によって仕組まれていた可能性すらあると筆者は考えています。

称徳天皇の崩御とともに失脚

宇佐八幡宮神託事件が起きた翌年に称徳天皇はまた具合が悪くなり、病に伏せることになります。神託事件があったためか、または政治と宗教の頂点に立つ権力者が行うことではないためか、今回は道鏡が称徳天皇の看病に当たることはありませんでした。そして称徳天皇は回復することなく、生涯独身を貫いたまま53歳で崩御(天皇が亡くなることを崩御といいます)することになります。道鏡は称徳天皇が病に倒れてからは会うことはなく、ただ崩御の知らせを聞いただけでした。

元々称徳天皇の強い後押しで太政大臣にまで上り詰めた道鏡は、ここで強力な後ろ盾を失ってしまい権力が衰えてしまいます。私有地の拡大を禁じていた道鏡は他の貴族から恨みを買っていたためか、または神託事件による余波なのかはわかりませんが、新しく天皇に即位した光仁天皇から下野国(現在の栃木県)へ左遷させられてしまいます。また道鏡の弟・浄人や浄人の息子たちもこれまで宮中で高い官職を得ていましたが、道鏡の左遷とともに捕縛され流罪を受けています。ここで称徳天皇に気に入られることで普通ではあり得ない程の大出世を遂げた道鏡と弓削一族は、朝廷から一斉に姿を消すことになりました。

道鏡についての考察

この見出しの内容は、史実を元にして筆者が勝手に想像した内容となっております。他の歴史書やブログの内容と掛け離れている場合もありますが、ご容赦いただきたいと思います。

道鏡はあまりの大出世を遂げてしまったためか、称徳天皇と男女関係にあっただの、とんでもない巨根だっただのとかなりひどい言い伝えばかりが残っています。実際のところは全く不明ではありますが、例えそうだとしても出世の理由は別にあると筆者は考えております。

称徳天皇からすれば貴族達は親族でもありますが、反乱(橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱)を起こす悩みのタネだったのではないでしょうか。ですが私有地の拡大や政界で影響力を強めようとする高位の貴族達の意向を、全て無視していては国政そのものが成り立たないのも確かなことです。

そんな中で称徳天皇は、自身を親身に看病した道鏡という僧侶に期待を掛けたのではないでしょうか。ワガママ放題な貴族達とは違い、僧侶である道鏡には私有地への欲求もなく、官位を利用して高圧的に他者に振る舞うこともないと判断したのでしょう。

実際に道鏡は太政大臣に就任してからも、私有地の拡大を禁じることや、寺院の造営や拡張など、どちらかと言えば平和的な政策を行っています。もちろんこの政策については称徳天皇も当然承認しており、むしろ称徳天皇の意向を反映した政策だったのかもしれません。つまり称徳天皇が自身の理想を叶えるために、道鏡という人物を頼ったのではないかと筆者は考えています。アグレッシブな女性天皇と、温和な僧侶といった凸凹コンビだったのかもしれません。

ちなみに道鏡を悪人に仕立てている「続日本紀」という歴史書は、元は藤原仲麻呂政権で編纂が開始されています。ですが藤原仲麻呂の乱の影響で編纂が中断され、再開は称徳天皇が崩御した後の光仁天皇の時代からとなります。その後光仁天皇の子供・桓武天皇の時代に完成を迎えることになりますが、光仁天皇と桓武天皇親子即位の正当性を持たせるためか、道鏡に対してはかなり批判的に書かれています。桓武天皇や貴族を持ち上げるための一貫として、道鏡が貶められた可能性が高いと考えております。

余談・称徳天皇の改名癖

称徳天皇は孝謙天皇であった時代や重祚した後にも、妙な恨みの発散の仕方をしています。称徳天皇自身に逆らった人物に変な名前を付け、相手を貶めるというちょっと子供じみたことをしています。

例えば宇佐八幡宮神託事件で道鏡の天皇即位を阻んだ和気清麻呂には、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という悲惨な名前を付けています。和気清麻呂の「清」といういい意味を持つ言葉を、わざわざ「穢」というひどく悪い意味を持つ言葉に置き換えて強制的に改名しています。このようなかなり大人げないことをする称徳天皇ですが、功績を残した女性に対しては官位を与えるなど、実は女性の地位向上に努めた人物でもあります。

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