平安時代1・平安京ができるまで | 桓武天皇の遷都計画

平安神宮 平安時代の時代史

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今回の記事では、桓武天皇により日本の首都が平安京に遷された場面をご説明いたします。

長岡京への遷都

既存の勢力を嫌った桓武天皇

奈良時代の天皇は天武天皇の系統が占めていましたが、桓武天皇の父・光仁天皇の代から天智天皇の系統に戻っています。これまで天武天皇の方針である仏教保護の政策が継続されていましたが、その結果として平城京は有力寺院が立ち並び、高僧達の国政への干渉が目立っていました。

特に奈良時代後期は僧侶の台頭が凄まじく、道鏡の皇位簒奪未遂事件などは、僧侶が政治や皇族問題にまで強い影響力を持っていた証明であるとも言えます。まあそれだったら都を移してしまえということで、桓武天皇は当時は未開の地だった山城国(現在の京都府南部)への遷都を決定します。

道鏡についての記事はこちらからどうぞ。

利便性が高そうな新都市・長岡京

そんな桓武天皇は平城京から40キロ程北にある長岡の地を選び、新都市の造営を始めました。長岡は桂川や宇治川といった水利があることも大きなメリットとなり、比較的造営はスムーズに進んだようです。そして新都市は建築開始からわずか半年でほぼ完成、この都市は地名そのままに「長岡京」と呼ばれています。

長岡京駅の写真
現代では「長岡京」がそのまま駅名にも

遷都直後に暗殺事件

784年には長岡京への遷都が完了していますが、造営の責任者には藤原種継という人物が就いていました。藤原種継は桓武天皇が即位してから急速な出世を遂げているため、桓武天皇から厚い信頼を受ける側近だったものと思われます。ところが遷都してから翌年、藤原種継は造営を監督している真っ最中に矢を射掛けられ、暗殺と言うにはかなりおおっぴらな襲撃を受けて亡くなってしまいます。

この事件の首謀者は百人一首にも短歌が採用された大伴家持(おおとものやかもち)となっていますが、大伴氏だけでなく皇族や貴族も多く関係していたようで、まとめて処罰されることとなりました。ところがこの事件は思わぬ余波を生み、桓武天皇の皇太弟(次の天皇になる人物)である早良親王(さわらしんのう)も巻き添えを食い、事件への関与が疑われ淡路島への流罪が決定します。

早良親王の死と災厄

刑が確定した早良親王は流罪先の淡路島へ向かう途中、冤罪を主張するため絶食を続けました。実際に藤原種継暗殺に関わっていたかは現代においても不明となっており、本当に冤罪だったのかもしれません。ですが早良親王の訴えは届くことなく、淡路島に到着する前に絶食により亡くなってしまいます。

早良親王が亡くなってからしばらく後、桓武天皇の身の回りに災厄が相次ぎました。早良親王の後に皇太子に立てられた人物が病に倒れ、桓武天皇の生母や妃たちが相次いで病で亡くなります。また長岡京では疫病が流行し、さらには長雨による洪水が起こるなどの災厄が続きました。現代では到底考えつかない判断なのですが、桓武天皇はこれらの厄災を早良親王の怨念であると考えます。

不穏な気配の鳥居

怨霊騒ぎと洪水でまたもや遷都を決意

桓武天皇は僧侶や陰陽師を派遣して鎮魂の儀式を行い、亡くなった早良親王を丁重に祀り上げて厄災を鎮めようとします。ですがその後も長岡京の中を通る川が反乱し、市街に大きな被害が出てしまいました。

当時治水を担当していた和気清麻呂は、怨念の問題ではなく長岡京はもともと洪水が起きやすい地形にあることを指摘します。そして桓武天皇は洪水と怨念騒ぎから逃れるため、長岡京へ移ってからわずか10年足らずでまたも遷都を決意します。

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鳴くよウグイス平安京

長岡京を放棄して新都を造営

桓武天皇は長岡京から見て東北に位置する場所を選び遷都を行いました。新たな都市の名前は、当時の中国王朝・唐の首都である長安にちなみ、平安京と名付けられます。碁盤の目のように整然と道が通るようにされた区画整備は、平城京や長岡京もですが、唐の長安を真似て造営されています。

平安京の模型

この平安京の市街模型は、Wikipediaの平安京のページからの転載となります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC

唐の大都市を模して作られた平安京

この時期の日本人は唐の国への憧れが強かった時代らしく、平安京は「長安」や「洛陽(らくよう)」といった唐の大都市の名前で呼ばれることもありました。この時代の漢詩文には、明らかに平安京を指しているのに「洛陽」という名称で呼ばれるケースが多くあります。この平安京を「洛陽」という都市名で呼ばれていたことを踏まえ、京都へ行くことを指して「上洛する」といった言葉も派生しています。ここで造営された平安京は応仁の乱などで度々荒れ果てますが、明治時代に至るまで日本の首都となっていました。

ちなみに現代の「京都」という地名は、首都を意味する「京」という字に都市を意味する「都」がくっついたものになります。実は飛鳥時代の首都である飛鳥京も京都と呼ばれていた記録があるため、古代では純粋に「首都」を意味する単語だったのかもしれません。平安時代の後期あたりからは「京都」という単語は平安京だけを意味するようになったため、平城京だった都市は「南都」といった表現をされるようになります。

まとめ

今回の記事では、桓武天皇による長岡京や平安京へ遷都する場面をご説明しました。

次回記事では、征夷大将軍が東北の平定に向かう場面をご説明いたします。

次回記事:

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