「享保の改革」を主導した徳川吉宗のエピソード

徳川吉宗と葵紋 江戸時代の人物録
徳川吉宗と葵紋

徳川吉宗が幕府将軍になるまでのお話

徳川将軍家の後継権を持つ3つの家「御三家」

江戸幕府の創立者と言えば徳川家康その人ですが、2代将軍に徳川秀忠が就任して以降はその子孫によって将軍職が継承されています。この嫡男の系統を優先する継承順位は武士世界では一般的であり、徳川家のみならず諸藩も右にならえで同様の継承形態となっていました。とは言え歴代の将軍から必ずしも男児が産まれる訳もなく、また医療事情が良くない江戸時代ということで、幼い時期に亡くなるケースも多々あります。ですが将軍になるべき人物がいなくなれば江戸幕府が存続できないということで、徳川家康は幕府創立と同時に子供3人をそれぞれ独立させ、いざとなればその3つの家から「将軍候補者を出せる」という設定を作り上げました。

そんな経緯でできた紀州和歌山藩・尾張藩・水戸藩は「御三家(ごさんけ)」と呼ばれ、親藩大名の中でも際立って高い家格として扱われていました。あの有名な時代劇ドラマの主人公「水戸黄門」もこの「御三家」の一つである水戸藩の出身であり、だからこそ徳川家の家紋「葵紋」の入った印籠を持っていた訳ですね。徳川吉宗は水戸藩ではありませんが、同じ「御三家」の一つとなる紀州藩から幕府将軍に就任しています。

水戸黄門と助さん格さんのイラスト
水戸黄門と助さん格さん

「御三家」出身では初の将軍

7代将軍に就任した徳川家継までは順調に男系が続いていたため、ここまで将軍候補者の補充を役目とする「御三家」の出番は全くありません。ところが徳川家継の男児達は全て幼くして亡くなったため、徳川将軍家の後継者が不在となってしまいました。ここでようやく「御三家」から次の将軍を選ぼうということになり、そこで白羽の矢が立った人物こそが紀州和歌山藩の藩主を務めていた徳川吉宗だった訳です。

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江戸に連れて行った側近の人選は「その日いたから」

晴れて将軍に就任することが決定した徳川吉宗でしたが、さすがに一人で乗り込む訳にもいきません。ということで紀州和歌山藩から家臣を連れて行くことになったのですが、この大事なはずの人選は相当テキトーだったようです。

徳川吉宗が江戸に向かう出発のその日、当番として和歌山城に詰めていた40名余りを連れ出し、そのまま江戸へ連れて行ってしまいました。しかもこの時の40余名は取り立てて高い身分の人間ではなかったため、この話を聞いた江戸の人々に「大雑把だけど気さくな良い人」くらいの印象を与えたそうです。とは言え連れてきた人の中には優秀な人材もいたようで、紀州和歌山藩時代からの側近達が「享保の改革」の原動力ともなっています。

徳川吉宗の政治改革「享保の改革」についてはこちらからどうぞ。

徳川吉宗の趣味・嗜好

将軍ではあれど生活スタイルは極めて質素

日本人は古代の時代より1日2食が普通のことであり、3食の習慣は実のところ江戸時代も中期に差し掛かった頃にようやく定着しました。というのも江戸時代に入るまでの日本は平和とは言い難い程戦乱だらけだったため、常に働き手が不足し食料の供給がままならなかったからです。それがほぼ戦乱のない江戸時代に入ると生産量が急上昇、中期に差し掛かった頃には3食の食事ができる余裕ができてきたという訳です。

そんな豊かになった時代でも徳川吉宗は質素な生活を送っていたようで、余程のことがない限りは1日2食を続けていたそうです。しかもその食事内容も質素な「一汁一菜」、つまりご飯と汁物を1椀、そしておかずが一品だけという将軍らしからぬ食生活でした。徳川吉宗は「享保の改革」にて幕府官僚や諸藩の大名に質素倹約を命じていますが、その内容を自ら実践していたという訳ですね。

将軍の食事にしては寂しい気も

5代将軍・徳川綱吉を尊敬

江戸幕府の5代将軍と言えば、日本史上でも最も微妙な政策「生類憐れみの令」でお馴染みの徳川綱吉です。この法令は本来「生きている者同士助け合いましょう」くらいの優しい内容だったのですが、段々と内容が過激になってしまい、なぜか人間と生き物の地位が逆転するという謎の現象が起きてしまいました。その影響範囲は日本本土だけでなく現代の沖縄にまで及び、第二尚氏王統が治める琉球王国にまで行き渡っていたようです。そんな悪法とも言える法令を出してしまった徳川綱吉ですが、この人物は悪化しつつあった幕府財政を立て直そうとした「改革者」の一面も持っています。

徳川綱吉のイラスト
「生類憐れみの令」を出した徳川綱吉

この徳川綱吉の治世は「天和の治(てんな)」と呼ばれ、日本の経済状況と幕府財政が一時的に上向いた時期でもあります。この手腕に対して徳川吉宗は大きな敬意を持っていたようで、実は「享保の改革」においても結構似た政策が採られていたりします。その後は6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)とその側近、新井白石(あらいはくせき)によって徳川綱吉の政策はほぼ撤回されていますが、徳川吉宗は尊敬する人物を冒涜した新井白石を快く思っていなかったようです。

徳川吉宗は新井白石が大嫌い?

6代将軍の徳川家宣、そして7代将軍・徳川家継の2代に渡って政治を主導した新井白石ですが、その基本的な方針は「これまでの幕府政治の否定」です。もともと儒学者という立場から幕政に関与し始めた新井白石でしたが、将軍の身の回りの世話をする「側用人」が大きな権力を持っていたことを批判し、次々と追放処分し追い出してしまいました。そして「生類憐れみの令」を始めとする徳川綱吉の政策も撤回していますが、これはこれでそこそこ良い状態ができたためか、「正徳の治」なんて良さげな呼ばれ方をしています。

新井白石のイラスト
徳川吉宗に嫌われてしまった新井白石

ところが8代将軍に徳川吉宗が就任すると風向きが一転、新井白石は即座に失脚し政治の舞台から追われることとなりました。そして徳川吉宗は新井白石の政策を片っ端から撤回し、さらに資料として提出された書類や著書は尽く破棄しています。一応は部分的に新井白石の政策が残っていますが、徳川吉宗はその痕跡をできる限り残さぬよう徹底的な排除に努めたようです。これは徳川綱吉を敬愛するが余りの極端な行動なのかもしれませんが、さすが「暴れん坊将軍」、嫌いなヤツに対してはかなり容赦がなかったようです。

ベトナムから象を輸入した徳川吉宗

徳川吉宗という人物は相当に好奇心旺盛だったようで、国内の事物だけでなく海外に対しても積極的に目を向けたようです。そんな中で徳川吉宗は「象」という珍しい動物のことを知り、自ら注文して取り寄せました。その「象」は長崎の出島に届けられ、そこから陸路をひたすら通って無事に江戸に到着したのですが、その間に各地で「象」フィーバーを巻き起こしたそうです。大きな動物自体が希少な日本においてインパクトがありすぎですが、この「象」は当時のクリエイターの心を刺激してしまったようで、関連する作品が結構残されていたりします。

狩野古信が描いた象
江戸時代の画家・狩野古信が描いた象

ちなみにヨーロッパにおける大航海時代は戦国時代と重なっており、我が国日本においても東アジア以外との交流が盛んになった時期でもあります。過酷な時代を生き抜いた権力者達は自らの力を誇示するため、珍重な品物を海外から輸入して家臣や近隣勢力に見せびらかしました。そんな用途だったため見せびらかす品物はハデな程効果的な訳で、ドでかくて誰も見たことのない「象」なんかはまさにうってつけですよね。という訳で豊臣秀吉や徳川家康あたりの時代ではちょこちょこ象が日本史に登場しており、その都度人々を沸かせていたようです。

外国の本を読みたいから洋書輸入を一部解禁

徳川吉宗の海外への想いは「象」だけにとどまらなかったようで、知識の源たる「本」も欲しいと考えたようです。ところが江戸幕府は長いことガチガチの鎖国政策を採っており、また「島原の乱」の影響もあってヨーロッパの書籍、いわゆる「洋書」については厳しい規制が掛けられていました。とは言え最高権力者たる徳川吉宗にとってはそんな規制は関係なく、強引に「洋書」の輸入制限を撤回しています。

この時解禁されたのはオランダの知識書だけであり、宗教書の類はやはり規制対象のままとなっています。とは言えこれまでの日本にとって輸入本は中国の書籍、しかも主に儒教関係ばかりだったため、ヨーロッパという先進地域の知識が手に入ったことは大きな進歩だったと言えるでしょう。このセンセーショナルな出来事に当時の学者達も大いに沸いたようで、こぞって「洋書」を買い求め、少しずつ解読しながら着々と知識を取り入れていきました。後にオランダの学問を意味する「蘭学」のベースはこの頃出来上がっているため、実は徳川吉宗のお陰で後年の蘭学者達が活躍できたということですね。

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