欧州を旅した戦国時代の子供たち・天正遣欧使節

安土桃山時代の宗教史
当時ヨーロッパで刊行された天正遣欧使節の記事

天正遣欧使節の概略と人物紹介

海外を知らない時代に子供が渡欧

現代では海外旅行も気軽に行けちゃいますが、戦国時代当時はむしろ日本国外に出た人自体がかなりレアです。そんな閉鎖的な時代において、初めて日本からイタリアのローマに行って戻って来た子供たち、それが天正遣欧使節団です。

彼らは当時の日本人には想像すらできない世界を見て回り、ヨーロッパとの橋渡しという重責を果たした上で無事帰還しました。今回の記事では彼ら天正遣欧使節が派遣された背景と目的、その足取りと結果をご説明いたします。

天正遣欧使節の4人をご紹介

それではまず、天正遣欧使節として派遣された人物たち一人ひとりの名前と、洗礼名・立ち位置などをご紹介したいと思います。この13歳と14歳の少年だけで構成された使節団は、全てキリスト教に改宗した大名や地方領主の子弟であることがポイントです。

伊藤マンショ(Mancio)主席正使豊後国の大名・大友宗麟の血縁者で名代。
千々石(ちぢわ)ミゲル(Miguel)正使肥前の地方領主・有馬晴純の三男。
中浦ジュリアン(Julian)副使肥前国中浦城城主・小佐々純吉の子息。
原マルティノ(Martin?o)副使肥前国の名士、原氏の子息。両親ともに改宗済。

伊東マンショの備考欄に「名代(みょうだい)」という言葉がありますが、これは単純に代理という意味ですので、つまり彼は九州の大大名・大友宗麟の代理として渡欧した訳です。そのため向こうでは小国の王子くらいにチヤホヤされており、当時キリスト教のトップに立っていた教皇・グレゴリウス13世にも謁見しています。

このグレゴリウス13世が考案した暦が現在世界中で使われているグレゴリオ暦

天正遣欧使節の目的と背景

誰もが持つ普遍的な警戒感

当時の日本は地域によってはそこそこキリスト教が広まっていましたが、それでも仏教に比べたら全然馴染みが薄く、宣教師との対話すら拒絶した人も多かったのではないでしょうか。まあ普通に考えたら、いきなり現れた怪しい外人が奨める宗教なんか誰も入らないということで、宣教師は布教以前にまず警戒感を取り除く必要があった訳です。

日本人にキリスト教の凄さを語らせたい

そこでイエズス会は「だったら同じ日本人に奨めさせたらいいじゃない」という結論に至り、ある程度キリスト教に理解のある日本人を、教皇が座するローマに招こうということになりました。こうして布教を強化する目的で天正遣欧使節が計画され、トントン拍子に進んだという訳ですね。

とは言え、ここで酸いも甘いも味わい尽くしたオジさんを連れてきても、変に勘ぐって新たな疑念を生みかねません。そこで感性が豊かでものすごく素直、そしてギリギリの社会性も持つ13・14歳の子供だけが選ばれたものと思われます。

日本側の目的は貿易の強化

そんなイエズス会の目論見に対して、天正遣欧使節を送り出した側にも立派な理由があります。というのも、西洋との貿易でもたらされる珍品は大変な高額で取引されていたため、貿易で利益を得られる人にとってはより活発化させたいというのが人情でしょう。

つまり自分達の代表を直接ヨーロッパに送ってさらに結び付きたかった訳で、だからこそ名家の子供たちが派遣されたという側面もあります。もちろん純粋なキリスト教への信仰心もあったのかもしれませんが、それだったら「なぜわざわざ子供を行かせた?」という疑問が浮上してきますので、まあこれは大人の事情というヤツですよね。

天正遣欧使節の足取りとその後

ユーラシアの東端から西端へ

当時はまだスエズ運河が開通していなかったこともあり、天正遣欧使節はアフリカ大陸をぐるっと回ってポルトガルに行き、そこからスペインを経由して地中海に入りました。まあユーラシア大陸の東端から西端までの長過ぎる行程ですので、地図で見た方がイメージしやすいかと思います。

もうアメリカ大陸以外は世界地図を使い切る勢いですが、当時の航海事情を考えればこの行程しかなかった訳で、そりゃまあ8年という年月も頷けてしまいますね。ちなみに途中で寄港したセントヘレナ島ですが、ここは後にフランスの英雄・ナポレオンが没する土地ですので、ちょっぴり日本史と世界史が絡んだ瞬間だったりします。

天正遣欧使節の帰国

1582年に出発した天正遣欧使節でしたが、実に8年後となる1590年に4人とも無事に帰国しました。出発する時13歳と14歳のあどけなさの残る少年達は、様々なことを経験した20歳前後の立派な青年となり、母国での布教活動を心に期しながら日本の土を踏みしめたことでしょう。

しかし、彼らが戻った時には日本の情勢は大きく変化しており、布教なんてとてもできる状態ではありませんでした。このことは当時天下統一に王手をかけていた豊臣秀吉が出した政策、「バテレン追放令」に起因しています。

豊臣秀吉がバテレン追放令を出した理由についてはこちらから。

帰国してみたらバテレン追放令

この何やらよく分からない「バテレン」という単語ですが、これはポルトガル語でカトリック司祭を意味する「パードレ」がなまったものらしく、まあ司祭を追放することの意味は要するにキリスト教布教の禁止です。この法令は段階的にその強度を強めたり弱めたりはしているものの、基本的には「キリスト教信者をこれ以上増やさない」ことがメイン目的でした。

つまりキリスト教布教を強化する目的で送られた天正遣欧使節だったのですが、彼らが戻ってきたら布教自体が禁止されていたという訳です。これだけでも彼らの8年は何だったの感はありますが、ここからの4人にはそれぞれ切なめの後日譚が残されています。

ひとまず豊臣秀吉に謁見

とは言えこの4人はまだ司祭ではなかったので、この段階ではバテレン追放令の適用外です。その頃天下統一を果たした豊臣秀吉は海外を見てきた人間に興味を覚えたのか、天正遣欧使節は京都にできたばかりの聚楽第(じゅらくだい)に招かれました。

京都にあったとされる豊臣秀吉の大豪邸・聚楽第

豊臣秀吉はこの4人に好感を持ったのか、仕官するよう勧めましたが、いずれも神に仕える者として丁重に断ったようです。その後4人が奏でた西洋音楽に秀吉はいたく感心したようで、何度もアンコールをせがんだという逸話が、ルイス・フロイスの「日本史」に記録されています。

天正遣欧使節がもたらしたもの

4人がヨーロッパから持ち帰ったモノとして、西洋ならではの楽器や絵画、そして活版印刷機が挙げられます。活版印刷機とは文字を並べて印刷する機械を言いますが、要するにこれがあれば本が印刷できるという訳です。

しかし、残念ながらこの印刷機が複製されることはなく、そして江戸時代の宗教規制によってマカオへと移設されてしまいました。実はこの時持ち込まれた印刷機は東アジア初だったそうで、残っていればその後の文化もさらに大きく花開いたことでしょう。

とは言えキリスト教を取っ掛かりに日本が侵略された可能性を考えれば、文化面を犠牲にした判断も妥当といったところでしょうか。次回記事では16世紀のポルトガルの日本侵略計画、及びイエズス会の陰謀論についてご紹介したいと思います。

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