親鸞上人が説いた極楽浄土への道・浄土真宗

用語集
浄土真宗の開祖・親鸞上人

浄土真宗は親鸞(しんらん)によって開かれた鎌倉仏教の一つ

親鸞上人によって開かれた浄土真宗は、鎌倉時代に乱立した新宗派・鎌倉仏教の一つとされています。浄土真宗は法然という人物が開いた浄土宗の流れを汲んでおり、それは開祖である親鸞上人が浄土宗を学んでいたことに起因しています。別名として一向宗とも呼ばれ、また一向宗門徒(信者のことです)による一揆は一向一揆と呼ばれます。

鎌倉時代に興った6つの新宗派・鎌倉仏教についてはこちらからどうぞ。

浄土真宗の特徴

阿弥陀仏の慈悲にすがる「他力本願」

他の仏教宗派は禅問答をしたり念仏を唱える、といった方法で極楽浄土に行きましょうという教義ですが、浄土真宗ではそんな余計なプロセスは必要ありません。この宗派では極楽浄土へ行くために必要なものは唯一つ、「阿弥陀如来を信じる気持ち」だけとなっております。この教義を四字熟語にまとめると「他力本願」という言葉になるらしく、自力では到底辿り着けない極楽浄土に他力、つまり阿弥陀如来という他者の力を借りて辿り着こうという訳ですね。

また「他力本願」さえあれば善人だろうが悪人だろうが問題ないということで、この教義のお陰であらゆる階層の人々が門徒として取り込まれていきました。ちなみに現代でも浄土真宗系で「〇〇本願寺」という名称のお寺がそこら中にありますが、この名称に用いられている「本願」の部分は当然「他力本願」という意味となります。

浄土真宗ではこの気持ちが大切です

浄土真宗には戒律がないため肉食・妻帯OK

この宗派の最大の特徴であり、また他の宗派と一線を画している部分こそが「戒律がない」という点でしょう。現代ではお坊さんの肉食や妻帯は当たり前となっていますが、鎌倉時代当時の仏教では僧侶が肉を食べること、そして妻を持つことは戒律で固く禁じられていました。そんな中でも浄土真宗は肉食OK、そして妻を迎えて子供を持つこともOKだったということで、信者だけでなく僧侶にとってもとっつきやすい宗派だったものと思われます。とは言え当時の常識に反した親鸞の教義は他の宗派から目の敵にされたようで、宗派間の争いに巻き込まれる原因ともなっています。

浄土真宗の発展とその後

浄土真宗の再興と発展を促した本願寺蓮如

実は親鸞上人自体は浄土真宗という教団は立ち上げておらず、むしろ浄土宗の一派として「こうすれば救われますよ」と伝えて回っただけだったりします。つまり親鸞本人はあくまで浄土宗を普及しようとしていただけであり、自分自身が新教団を立ち上げたつもりなんか毛頭なかった訳です。ところが親鸞の没後に弟子達が教団としての活動を開始、ここでようやく「浄土真宗」という宗派名が用いられ始めています。

ですが浄土真宗は当初芳しいとは言えない状況で、親鸞上人から数えて8世に当たる蓮如(れんにょ)が継いだ頃には比叡山延暦寺との対立も激化し、延暦寺から仏敵として扱われるなど苦境が続いていました。そんな状況にも蓮如はめげずに再興を目指し、京都に山科本願寺を建造し延暦寺に対抗する姿勢を示しています。そして加賀国(石川県南部)では大規模な一向一揆を起こして国主・富樫政親を討ち取り、ここから加賀国・能登国(石川県北部)は100年近くの間浄土真宗の統治下に置かれています。

現在の石川県がほぼ浄土真宗の統治下に

天文法華の乱で山科本願寺が焼失

蓮如の代に再興を果たした浄土真宗でしたが、戦国時代に入ると他宗派との対立が激化しています。浄土真宗は京都に多くの信者を抱えていた日蓮宗と対立し、また室町幕府からも厄介者扱いされるという四面楚歌状態に陥りました。そして浄土真宗を脅威に感じた管領・細川晴元は、日蓮宗と力を合わせて山科本願寺を襲撃、周囲にあった住居もろとも寺院を焼き払っています。この天文法華の乱と呼ばれる事件で本拠を失った浄土真宗は、拠点を大阪の石山に移し巨大寺院の建造を始めました。ここで作られた石山本願寺の周囲には寺内町が形成され、この時から大阪の地は浄土真宗の拠点となり大きく発展することになります。

天文法華の乱はこちらからどうぞ。

本願寺顕如の頃は強大な軍事力を持つ教団に

親鸞上人から数えて11世・本願寺顕如の肖像

戦国大名をも恐れさせた一向一揆

戦国時代も末期に差し掛かった頃、浄土真宗はすでに日本各地に拠点を持つ巨大教団と化していました。当時の門跡(もんぜき、教団のトップ)本願寺顕如は一向衆を扇動して一揆を起こし、戦国大名達に圧力を掛けて膨大な利権を手にしています。徳川家康の家臣まで取り込んだ三河一向一揆、尾張国(愛知県北部域)に本拠を持つ織田信長への抵抗を続けた長島一向一揆など、浄土真宗は歴史に名を残す名将達をも悩ませる強大な存在となっていました。気付けば領内で幅を利かす浄土真宗は戦国大名に厄介者扱いされ、上杉謙信や徳川家康は禁教として弾圧を加えて被害の拡大に努めています。

三河一向一揆を含む徳川家康の三大危機はこちらからどうぞ。

キリスト教が受容された理由の一つとして

戦国時代末期の英雄・織田信長と言えば新しい物好きなイメージがあり、ヨーロッパ諸国の物品やら文化を積極的に取り入れたイメージがありますよね。その一環としてキリスト教宣教師に対して布教を認めたかのような印象がありますが、実はその裏には仏教に対する不信感も大きく影響していたようです。

というのも織田信長は比叡山延暦寺、また後述する石山合戦で浄土真宗とも戦争に至っており、どちらかと言えば仏教とは敵対していた感があります。ですが実際のところは延暦寺や浄土真宗から織田信長に対してハラスがあったからこそ戦争が起きただけで、実は織田信長は敵対していない仏教勢力に関しては相当手厚く保護していたりします。つまり織田信長からすれば敵じゃなければ攻撃していないのですが、当時の肥大化した仏教勢力は経営のためにも利権を守る必要があり、織田家と敵対するしかなかったという側面もあります。

こんな理由で織田信長は大きな仏教勢力といちいち敵対していたのですが、逆に言えば大きくない仏教勢力だったら利権で争う必要もない訳です。つまり織田信長は他の宗教を入り込ませて勢力を分散化させたかったということで、そのためにキリスト教の布教が許可されたという訳ですね。まあもちろん宗教的な問題だけでなく、当時出回りだした鉄砲の部品や硝石が欲しい、そして何より新しいモノが「カッコいい」というのも理由の一つだったとは思いますけどね。

比叡山延暦寺と織田信長の抗争、そして結末についてはこちらからどうぞ。

石山合戦で織田信長に降伏

足利義昭の要請で織田信長が京都上洛を果たすと、本願寺顕如は織田家を仏敵として扱い敵対姿勢を明らかにしました。信長包囲網と呼ばれる対織田戦線にもキッチリ参加しており、要塞化した石山本願寺で防衛しながら各地で一向一揆を起こすなど、徹底的な抗戦を繰り広げています。信長包囲網が崩れた後も浄土真宗だけは抗戦を続け、中国地方の覇者・毛利輝元と結託しながら大阪の地で戦いを続けました。ですが第二次木津川口の戦いで毛利水軍が惨敗すると、海上からの補給がままならなくなったため抗戦不能に陥り、降伏という形で信長の軍門に下っています。

石山合戦についてはこちらからどうぞ。

徳川家康によって2つに裂かれた本願寺

本能寺の変を経て羽柴秀吉が織田家の実権を握ると、本願寺顕如と秀吉は友好的な関係を築き始めました。ですが秀吉が亡くなった後に関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、家康は浄土真宗という巨大教団の統制に乗り出しています。家康は顕如の長男・教如を東本願寺、そして顕如の3男・准如に西本願寺を与え、それぞれ教団のトップとして扱うことで内部分裂を誘発しました。この家康の方策は浄土真宗内部での抗争が生みましたが、幕府へ抵抗する力を削ぐという意味では大当たりし、江戸時代を通じて一向一揆は一度も起きていません。とは言え戦国時代を乗り越えた大名達にとって浄土真宗は恐怖の対象だったようで、島津家の薩摩藩では江戸時代も禁教として扱われています。

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