石高とは土地の生産力を表す評価数値です

用語集
米の生産量期待値が石高です

石高は面積ではなく収入の量を表します

豊臣秀吉が行った「太閤検地」以降、土地ごとのお米の収穫量を「石(こく)」という単位で表したものを指します。この石高制は太閤検地から江戸時代まで使われましたが、明治維新の「地租改正」で完全に廃れてしまいました。実際に使用されたのは300年弱という短期間の制度ではありますが、土地面積ではなく「生産量」に着目しており、当時としてはかなり近代的な手法が採られています。

「石」とは尺貫法での容積単位です

物や液体の量を表す「石」

現代では「石」という単位自体まずお目に掛かることがありませんが、これはかつて日本で使われていた「尺貫法」において体積を表す単位となっています。1石は10斗に相当しており、また100升、1,000合に相当しています。一合は大体180グラムに換算することができるため、1石は180リットル分のお米ということになります。つまり1リットルの牛乳パック180本分が1石に相当します。

この1合枡が1,000個分で1石です

大人が一回の食事に消費するお米を1合とすると、3食で3合となり、この数字を333日で掛けると約1石となります。32日分少なくはあるのですが333日を大体1年とすると、1石のお米は大人1人が1年で消費する量となります。つまり大名が兵を1万人養うのであれば、お米が一年当たり1万石あればOKということですね。

計量法施行により「尺貫法」での計量が廃れる

ちなみに現代において「石」という単位に馴染みがない理由は、1951に制定された「計量法」が施行されたことに由来しています。「計量法」では国際基準となっているメートルやリットルといった単位の使用を推奨しており、逆に計量が必要となる品物の商取引において「尺貫法」の使用を禁止しています。そのため現代でスーパーに「一升の牛乳」などはなく、リットル法で計量された品物が並んでいます。日本酒の一升瓶や焼酎の4合瓶はお酒売り場でよく見かけますが、よくよく商品ラベルを見てみるとキチンとリットル法で容量が表記されています。

一升瓶のお酒もミリリットル表記されています

とはいえ「尺貫法」は完全に廃れているわけではなく、現代でも結構使用されていたりします。打ち上げ花火の10号玉は一尺玉と呼ばれ、脚立の高さは○尺と表現され、大容量のペンキは一斗缶に入れられて販売されてたりしますよね。さすがにお米を一石単位で売買するのは業者間だけでしょうが、「尺貫法」は現代日本でも意外なところで使用されています。

明治維新まで土地の評価基準とされた石高制

石高制の導入前は貫高制

戦国時代に入ると各大名は戦争資金の調達のため、農民たちにいかに効率よく年貢を収めさせるかに腐心していました。ほとんどの領国では収穫された農産物に対して一定割合の税を課していましたが、農民達が収穫高を誤魔化すという事例が多くあったようです。収穫を低く見せることで納税額を減らすという、現代で言うところの脱税行為が頻繁に行われていたわけですね。各大名はこういった農民達の脱税を防ぐため、「貫高制」という「石高制」の前身となるシステムを編み出しました。

「貫高制」とは土地で毎年収穫できる生産量をお金に換算し、その額に応じて土地ごとの年貢量を決定するシステムです。「貫」とは当時のお金の単位であるため、現代風に言うと「〇〇という土地からは毎年△△円の収穫があがる」という表現になるのでしょうか。

それでも基準はバラバラです

まあ要するに、土地の価値を金額という具体的な数字に置き換え、そして「あらかじめ年貢高を決める」ことで、大名たちは安定した税収を得ようとしたわけです。大名によっては貨幣での納税も受け付けていたようなのですが、元々貫高で計算されているため金納もスムーズです。

ところが戦国期はそれぞれの大名がいわゆる王様だったので、土地の評価基準は一定しておらず結構バラバラです。また場合によっては水産物や製造物も課税対象となっていたようで、つまり地域ごと、大名ごとに全く別の課税制度と基準が用いられていた訳です。ですが豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたことにより、貫高制は少し違った形で進化を遂げることになります。

豊臣秀吉の太閤検地

朝鮮出兵のために大名の経済状況を確認

豊臣秀吉が行った太閤検地は結構有名ではありますが、この事業は「日本全国を統一基準で評価」したことに意義があります。これまで統一基準で土地の評価がされなかったのは単純に「必要なかった」、もしくは「出来なかった」からなのでしょうが、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉にとっては「必要であり出来ること」だったのでしょう。

太閤検地についての詳細はこちらから。

この太閤検地によって土地の収穫量が算出され、豊臣秀吉は各大名の経済状況を把握できるようになりました。なぜ豊臣秀吉はこんなことをしたかと言えば、「朝鮮出兵」を見越して誰がどれくらい食料と兵員を出せるか、を確認するためだったりします。貫高制も同様でしたが、支配者による「評価」は「いかに相手から搾り取るか」という一点に尽きるという、妙に空恐ろしい話でもあります。

石高制の基準はあくまで米

「米」中心の石高制がスタート

太閤検地が成されて土地の収穫量が確認できたことで、日本は「石高制」という新たな体制に移行しました。この石高制が貫高制との大きな違っているところは、お金ではなく「米」という農産物に焦点を当てている点でしょう。当時は発展した経済に比べて貨幣が圧倒的に不足していたため、貨幣の代替物として「米」は高頻度で商取引に使用されていました。お金の代わりにもなり、また食料としても食べることができる「米」は、安定して得ることができる税収の対象としてうってつけだったわけです。

日本中世の貨幣についてはこちらからどうぞ。

ちなみに石高を使った土地の評価方法は、織田信長が生存していた頃から織田家でも使用されていました。評価基準は織田家と太閤検地では若干異なるのでしょうが、秀吉は信長の政策を全国的に流用しただけとも言えます。

江戸幕府も石高制を継続

徳川家康が征夷大将軍に就任すると、太閤検地よりもさらに詳しい基準で土地の再評価が行われています。ここでは村単位で石高を付けており、「〇〇村と□□村を持っているから△△万石」といった方法で大名の家格を決定付けています。このタイミングで決定された石高は「表高(おもてだか)」といい、参勤交代の行列規模の基準にもなり、幕末まで一切変わることはありませんでした。ですが江戸時代を通じて行われた新田開発や技術新興により、時代が進めば進むほど大名家の「表高」と実際の収穫量には大きな差が生まれています。

貨幣不足という背景で成り立っていた「米」を基軸とした石高制でしたが、18世紀に入った頃から全国的に米の生産量が増加し、市場に米が溢れかえったことで値段が下落していきます。徳川将軍家を含めて大半の大名家では給与が米の現物支給だったため、米価格の下落は侍達の生活をひたすら圧迫し続けました。また天災などによる米の不作年では、「米」の値段は上がるけど収穫高自体が減るためやはり収入が減るという、「米」だけでなく「農産物」を税収対象とするデメリットが露骨に現れています。結局江戸時代を通じて「米」を税収対象とした石高制から脱却することなく、日本は明治維新を迎えることになります。明治維新の一環として「地租改正」が行われ、また紙幣の発行など貨幣制度の見直しもあったことで、ようやくお金での納税が始まっています。

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