執権を補佐する鎌倉幕府の二番手・連署

用語集

連署とは

執権に次ぐ権力を有する役職・連署

鎌倉幕府は3代将軍・源実朝が亡くなって以降、北条時政とその子孫が「執権」として実質一番の地位を手にしました。連署とはその執権を補佐するための役職ですが、やはり執権同様に重要とされ、幕府内では執権に次ぐ役職として認知されています。とは言え連署に就任した人物は執権と同じく北条氏一門だけですので、北条氏の権力増強のために作られた役職とも言えます。

連署という役職名の由来

この連署という役職名は公文書、つまり公式な文書に執権と連名で署名したことに由来しています。「連名で署名」したから「連署」というシンプルなネーミングですが、よくよく考えたら執権も「権力を執る」でしかないため、役職名なんか大体そんなモンということですね。

鎌倉幕府における連署

連署の初出は3代執権・北条泰時の時代

初めて連署が設置されたのは承久の乱が終わった後、3代執権として北条泰時が就任してからとなります。北条泰時は出自の問題で元々北条義時嫡男ではなかった、つまり跡を継ぐべき立場にはなかったのですが、弟の北条朝時の失脚と北条政子の強い推薦でなんとか執権に就任しました。そのため北条泰時には自身を支えてくれる側近などおらず、叔父に当たる北条時房(ときふさ)を招き、補佐してもらうために連署に任命しました。この時の北条泰時としては臨時で連署を置いたのかもしれませんが、この後は常設化され鎌倉幕府が滅亡するまでに14人が就任しています。

御成敗式目を制定した3代執権・北条泰時についての記事はこちらからどうぞ。

ミスター連署・北条政村

北条政村という北条泰時の弟に当たる人物は、5代執権・北条時頼、そして6代執権・北条長時の連署を歴任した大ベテランです。そして北条長時が病のために執権職を退くと、当時60歳の北条政村が7代執権として自ら鎌倉幕府の頂点に立ちました。ですが北条政村自身には政権のトップに立ち続ける気はなかったようで、スーパーエリート・北条時宗が成人するまでのリリーフ感覚だったようです。

14歳にした連署、18歳にして執権に

北条政村は僅か14歳の北条時宗を連署に任命していますが、ここで政治とはなんたるかを叩き込んだのでしょう。そして北条時宗が18歳になった頃、突如モンゴル帝国から降伏勧告が届くと、北条政村は若きエリートに執権職を譲り、自らはまた連署に戻り補佐に回りました。結局北条政村は元寇の第一波・文永の役が終わった翌年に亡くなっていますが、それまでは一族の長老格として北条時宗を支え続けています。

元軍から日本を救った英雄・北条時宗についての記事はこちらからどうぞ。

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