琉球随一の英雄・護佐丸

護佐丸の墓所 琉球史
護佐丸の墓所

琉球に名だたる名将・護佐丸

琉球王朝の歴史の中において、英雄と呼ばれる人物を知っているでしょうか。琉球王国を作り上げた「尚巴志」の名前は、よく知られているかと思います。3つの王朝が並び立つ現沖縄県を1代でまとめ上げた功績は、長い琉球史の中でも一際輝かしいものと思われます。

尚巴志についての記事はこちらからどうぞ。

しかし、沖縄で「英雄と言えば誰?」と質問すれば、多くの人が「護佐丸」の名前を出すでしょう。護佐丸という武将の知名度は沖縄において飛び抜けており、戦上手で領地経営の手腕にも長けた、琉球史に残る偉大な将軍として現代でも沖縄県民に知られています。また領民にまで慕われる人徳を持つ人格者でもあったという、まさに英雄と呼ぶに相応しい人物と言えるでしょう。

その護佐丸が実際にどのような場面でどのような行動をとったのか、またどんな人物だったのか、今回の記事では各資料を元にその足跡を辿ってみたいと思います。

琉球一の武将・護佐丸の活躍

護佐丸は、1390年に山田城を拠点とする読谷山(ゆんたんざ)按司の息子として生を受けています。読谷山とは現在の沖縄県中部にある読谷(よみたん)村地域に当たり、風光明媚な海で有名な場所となっております。

1416年に先の中山王を倒し、中山王国は尚思紹を王位に就けて世代交代にも成功、上り調子の勢いのまま北山討伐の軍を起こします。その頃北山を支配していた王・攀安知は、傍若無人な典型的暴君であったため、家臣からも領民からも信頼を失っていました。そのため北山に属する多くの按司たちが中山王国の軍に参加しており、その中にすでに読谷山按司の地位を継いでいた護佐丸もいました。

中山軍に加わった護佐丸は、自ら兵八百騎を率いて尚巴志の別働隊として行軍、険しい山々を越えて今帰仁城の背後に出て城を包囲しました。しかし天然の要害として知られていた今帰仁城は、北山軍の勇猛さと相まって高い防衛力を発揮、なかなか落城しませんでした。そこで護佐丸は尚巴志に今帰仁城内にいる勇将・本部平原(もとぶていばら)の懐柔を提案、尚巴志はこの策を採り入れ本部平原に賄賂を送り懐柔、戦闘が始まったタイミングでの裏切りを約束させています。こうして難攻不落の今帰仁城は、尚巴志による正面攻撃、そして本部平原の裏切りに合わせて後方から攻撃した護佐丸により、ようやく攻略に成功しています。

この活躍によって、護佐丸は北山地域の監視役として一時的ではありますが、今帰仁城に残ることになったと言います。その後尚巴志の次男である尚忠(しょうちゅう/後の尚忠王)が後継となると、「北山監守」と呼ばれる北山地域の統治を担当する官職が創設されると、護佐丸はこの役職に就任し正式に大きな権力を手に入れています。

築城名人かつ経営力抜群

護佐丸の活躍は、戦場だけにとどまることはありませんでした。護佐丸の才覚は、築城技術や領地経営においても抜きん出ていたと言われています。北山の戦後処理を終えて読谷山に帰ってきた護佐丸は、拠点を山田から座喜味(ざきみ/沖縄中部にある読谷村の地域)へと移し城を築き上げています。座喜味城は沖縄に数ある城(ぐすく)の中でも、「最も端正な名城」と呼ばれる程に美しい姿をしており、現代にも城の一部ではありますが当時の面影を残しています。

小高い丘に建てられた座喜味城は城壁が分厚く、屏風のように曲線を描く形に造られています。これは、座喜味城が国頭(くにがみ)マージと呼ばれる粘土質の赤土で形成された地盤の上に建っていたため、その地盤の弱さを補い、崩落を防ぐための工夫だったといいます。

座喜味城の写真
数百年が経った今もなお座喜味城は綺麗な石組みを保っています

また、この城壁は石をかみ合わせて積んでいく「相方(あいかた)積み」の技術と共に、直方体に加工した石を一段毎に高さを揃えてブロック状に積み上げる「布積み」という、日本の築城様式にも見られる技法が併せて使用されています。さらにアーチ状の門には強度を高めるために中央部にくさびを打ち込むなど、当時最先端の築城技術が幾重にも詰め込まれて建築されています。

また座喜味城築城の際には地元の領民だけでなく、奄美や慶良間諸島の人々も駆けつけたと言われており、護佐丸の人徳と影響力の強さを窺い知ることができます。そして護佐丸は座喜味城築城後には城下にある長浜港を使い、日本や東南アジア諸国との貿易を活発化させています。後に東アジアの重要な中継貿易の拠点となる琉球王国という国の一部として、読谷山という地域は護佐丸の統治下で大発展を遂げています。

これが座喜味城だけの話で終わらないのが、護佐丸が琉球一の名将と言われる所以でしょうか。護佐丸は後に、勝連の寵児・阿麻和利の牽制のために中城城へと移ってきます。その中城城も守りの薄かった勝連方面を拡張すると城壁に厚みを持たせ、重厚なアーチ門を造り上げ阿麻和利に対してプレッシャーを掛けています。そして城下にあった良港・吉の浦(屋宜港)においても貿易を開始すると座喜味同様に多くの人で賑わい、ここ中城でも地域を大きく繁栄させています。

護佐丸の持つ「別の顔」

攀安知の子供を救ったのは護佐丸だった?

護佐丸は阿麻和利の策謀により謀反の疑いをかけられ、最終的に自らの潔白と忠誠心を見せるために自害して果ててしまいます。その悲劇的な死ゆえに沖縄では悲劇の英雄とされており、その功績と相まって高い人気を誇っています。しかしこの忠義の人・護佐丸にも、ちょっと意外性のあるサイドストーリーが存在しています。それは琉球王朝の意志に背き、北山の暴れん坊・攀安知の子供達を助けたのではないかという話です。

護佐丸の曽祖父にあたる人物は、実は元今帰仁城主だったと伝わっています。今帰仁城主の地位にあった護佐丸の曽祖父は、後に北山王国の初代王となる怕尼芝(はねじ)によって滅亡しているため、護佐丸は世代をまたいだ曽祖父の敵討ちという気持ちもあって北山征伐に加わったのかもしれません。

北山征伐によって倒れた攀安知の長男・仲宗根王子という人物は、渡名喜島(となきじま/那覇市の北西約60kmにある島)に逃れたとされていますが、実はこの逃避行は護佐丸が手配したことで実現しています。仲宗根王子はこの後に護佐丸の居城山田城で匿われ、さらに島尻方面に逃れたと伝わっています。

護佐丸は、なぜ北山王の嫡男を救おうとしたのでしょうか。それは未だにハッキリとわかっていませんが、「攀安知」の記事でも書かせていただきました通り、琉球王朝と北山王統は血縁的に密接な関係がありました。そういった背景の中、護佐丸は攀安知の高貴な血統の消失を惜しんだのでしょうか、それとも純粋に親を失った亡国の王子を哀れんだのでしょうか、護佐丸は仲宗根王子の命を救い逃亡先まで用意しています。

攀安知との戦いについてはこちらからどうぞ。

護佐丸・阿麻和利の乱は私闘から始まった?

護佐丸・阿麻和利の乱と言えば、自分の野心の邪魔になる護佐丸を倒すために、阿麻和利が仕掛けた策謀であったとするのが通説となっています。ところが、その通説とは違うもう一つの説が存在します。それは、護佐丸・阿麻和利の乱は、実は私闘だったのではないかというものです。

護佐丸の勢力範囲が、奄美や慶良間諸島にまで影響力を持っていたことは先程お伝えしました。それは、護佐丸が日本や東南アジアとの貿易に力を入れていた結果でもあるでしょう。その護佐丸の勢力拡大を快く思わない人物が、勝連按司の阿麻和利でした。阿麻和利も海外との貿易により力を伸ばしてきた有力按司であり、その影響力は護佐丸同様に奄美、慶良間列島に及んでいたと考えられています。

野心家であった阿麻和利としては、建国の英雄であり多くの按司から支持されている護佐丸は利害関係が一致しないということもあり、また何かと目に付く目障りな存在だったのでしょう。また護佐丸としても王府に害を及ぼすかもしれない強権を持つ阿麻和利を、脅威に感じ力を削ぎたい、と考えていたのではないでしょうか。

貿易により力を更に強めたい若き野心家と、その野心家の力を押さえ込んでおきたい忠義一徹な老将が隣り合っていたならば、両者の間の緊張感は自然と高まっていくのでしょう。勢力圏と経済活動の内容がガップリと一致し、そして思想は正反対という間柄では、イザコザが起こらない方がおかしい気もしてしまいます。このような背景があったため、両者の争いはいずれにしてもいつかは起きていたのではないでしょうか。

護佐丸・阿麻和利の乱についてはこちらからどうぞ。

まとめ

琉球随一の英雄・護佐丸は、琉球王府に忠義を尽くした名将のイメージを現代にまで色濃く残しています。もちろん記録を辿れば忠義者感満載の人物ではありますが、目を閉じれば領民に慕われながらも部下達を叱咤激励、琉球王朝のために勇猛に戦う姿が思い浮かびます。筆者はそれに加えて、故郷を失った王子を助ける人情を持ちながら、阿麻和利とついつい諍いを起こす人間味のある人物像を思い描いています。個人的なイメージではありますが、よくマンガに登場する「じいや」キャラのような、忠節と温かみを持った人物と勝手ながら考えております。登場するだけでなんとなく安心感が生まれる、そんな人物イメージですね。

まだまだ皆様の興味を引く歴史が、琉球史には残されています。その歴史をまたご紹介させていただきたいと思います。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

<参考サイト様>

日本の国内旅行ガイド600箇所 中城城と護佐丸盛春とは~護佐丸・阿麻和利の乱と王女・百度踏揚【世界遺産】

https://traveltoku.com/nakagusuku/

沖縄の裏探検 北山監守の墓

https://ameblo.jp/quox-umiyamagusuku/entry-11107490749.html

おきなわ物語 沖縄観光情報WEBサイト 座喜味城跡(ざきみじょうあと)

https://www.okinawastory.jp/feature/heritage/zakimijoato

レキオ島唄アッチャー 津波古に移住した北山王・攀安知の子孫、その3

http://rekioakiaki.blog.fc2.com/blog-entry-618.html?sp