攀安知〜琉球統一の勝者は誰だったのか〜

今帰仁城址の写真 琉球史
今帰仁城址(なきじんぐすく)の写真

北山の勇猛な王・攀安知

前回は、琉球王国を作った偉大な王である尚巴志を紹介させていただきました。幼い頃からその才覚を発揮し、領民の信頼を得て三山時代の沖縄を統一した尚巴志の活躍は目を見張るものでした。その際、北山王であった攀安知(はんあんち/はねじ)についても触れさせていただきました。粗野で暴力的だったため、部下に裏切られて討ち取られた王というイメージを沖縄の人でも持っています。

しかし、それが全く違う一面を持ち合わせていたとしたらどうでしょうか。実は、琉球統一の真の勝者だったと言われたらどうでしょうか。

今回は、粗野で野蛮だったはずの北山王・攀安知を別の視点から見ていきましょう。琉球の歴史の奥深さ、味わいの深さを感じていただきたいと思います。

攀安知は暴虐な王だったのか

謎に包まれた怕尼芝(はねじ)王統(北山王統)

攀安知は、2代目の北山王である珉(みん)の嫡男として生まれました。しかし、この北山王統の王達には、正式な記録がほとんど残されていません。彼らのことが伝えらるのは、口伝であったり、琉球王府が編纂した歌謡集である『おもろさうし(おもろそうし)』に限られています。攀安知に関しては、琉球王府の正史である『球陽』や『中山世鑑』に見られますが、その内容は中山王である尚巴志が北山を攻め滅ぼした一場面に限られています。この様に、北山を治めていた怕尼芝王統には謎のベールに包まれた部分が多くあるのが現状です。

その謎に包まれた怕尼芝王統の王達ですが、中国・明王朝の資料である『明実録』の中に歴代の王の名前を見ることが出来ます。その内容は、どの王がどれだけ朝貢を行ったかという回数です。記録によれば、初代の怕尼芝王が1383年に初めて明に入貢しています。そこから怕尼芝王が合計5回、二代目の珉が1回、三代目の攀安知が11回入貢し、政治的にも経済的にも力をつけようと試みていたことが読み取れます。

また、北山の支配地域は、本島地域の約半分と周辺の島々、更には沖永良部島や与論島にまで及んでいたとされています。しかし、貿易港などの経済の中心は中山や南山に集中していたため、他の二山に比べて国力は劣ってたと考えられています。

今帰仁城址の石畳と階段
今帰仁城址の石畳と階段、当時の 攀安知 の威光が伺えます

傍若無人な王、攀安知

北山王の中で、その人物像がはっきりとしているのが、三代目の王である攀安知です。彼は、日の出の勢いで力を付けて来た中山王である尚巴志によって滅ぼされてしまいます。

では、その攀安知とはどのような人物だったのでしょうか。まずは、琉球王府の正史である『球陽』に描かれている攀安知という人物を見てみましょう。

『球陽』で攀安知は、色欲に溺れて領民を虐げる、悪虐非道の人物として描かれています。また、「驕傲(きょうごう)日に盛ん」として、日に日に驕りたかぶっていき、その独裁的な支配体制を作り上げていた、と強調しています。

実際、先程も書いた通り、攀安知の治世において北山は国力を高めていきます。その勢いが大きなものにならないうちにと、尚巴志は軍を起こし、北山征伐へと向かうことになります。攀安知の支配に不満を持つ北山の諸按司たちは、尚巴志の軍に加わり北山王討伐の意志を表明します。

諸按司たちの協力もあり、三千人を超える軍勢が集まり、北山の居城・今帰仁城を包囲します。すぐにでも落城すると考えていた討伐軍でしたが、天然の要害であった今帰仁城の堅牢さに加え、迎撃態勢を整えていた勇猛な北山軍の活躍で膠着状態となります。

しかし、部下の信頼を失いつつあった攀安知は、尚巴志の策略によって腹心に裏切られ、命を落としてしまうのでした。

英雄としての攀安知像

それでは、『球陽』以前に書かれていた正史である、『中山世鑑』の中の攀安知はどうでしょうか。

『中山世鑑』において、攀安知は赤地の錦の直垂に赤糸の鎧、龍頭の兜を身に付け、名刀・千代金丸を腰に下げ、小長刀を脇に抱えた源平武者を思わせる姿で描かれます。『球陽』での悪漢振りとは少しイメージが違うように感じるのではないでしょうか。

攀安知の最期についても、『球陽』とは印象が全く違うものになります。北山軍が二百人討ち取られれば、中山連合軍は五百人以上が討たれる有様が描かれ、北山軍の勇猛さを伝えています。しかし、多勢に無勢の北山軍は次第に追い込まれてしまいます。もはやこれまでと覚悟を決めた攀安知は、僅か17騎を率いて中山連合軍の真っ只中に切り込んで行き、一矢報いると城内で守り石を斬りつけ、その刀で自害して果てます。

この様に、『中山世鑑』における攀安知は、『球陽』での描写とは異なり、武勇に優れた悲劇の将として描かれています。

また、北山王国の拠点となっていた今帰仁(なきじん)城は、何度かの改修を経て首里城に匹敵するほど巨大な城(ぐすく)となったと言われています。その改修が大規模に行われたのが、攀安知の頃であると考えられているのです。このように見てみると、攀安知は『球陽』に書かれていたような、極悪非道な人物だったのでしょうか。城の大規模改修となれば、多くの領民が労働に駆り出されていたと思われます。もちろん、暴力を恐れて従ったという人もいたかもしれませんが、それだけの人間を動かすには、ある程度のカリスマ的存在でなければ、難しかったと考えられはしないでしょうか。

また、琉球王府の編纂した歌謡集である「おもろさうし(おもろそうし)」には、当時の北山王を唄ったものが2つ残されていますが、いずれも王を讃えたものであり、攀安知が歴史書度通りに領民に嫌われていたとは言い切れないことが分かっていただけると思います。

今帰仁城址の石垣
今帰仁城址の石垣、石組みだけでかなり繊細な造りです

琉球統一の勝者は誰なのか

生き延びた攀安知の息子たち

ここからは、攀安知の血筋を追うことで、琉球統一の勝者とは本当に尚巴志一族であったのかどうかを考えてみようと思います。

まず、攀安知の息子たちについて見ていきましょう。本来、敵対している一族の血統は、反乱の芽を摘むために殺されてしまうのが当時は普通でした。しかし、攀安知の息子たちは助けられ、生き延びているのです。

長男、次男については父と共に戦死したと伝えられていますが、三男と四男については、今後、武士身分とはならないことを約束させられ、佐敷間切(まぎり/琉球王朝時代から明治初期にかけての沖縄の旧行政区画名)津波古(つはこ/沖縄県南部の南城市の地域)で農民として生涯を終えています。

五男の虎寿金(とぅらじゅがに)は、北山滅亡後に生まれた子供で、母親と共に南風原(はえばる/沖縄県南部の町)間切の内嶺(うちんみ)按司の捕虜として生活していました。その後、第一尚氏が滅んだ時に第二尚氏の王、尚円の引き立てにより兼城按司の養子となり、領民を持つ立場へと返り咲いています。

ここで、少し疑問に感じることがあります。尚巴志の血筋とは異なる第二尚氏の王・尚円とは言え、王府に対して反乱を起こすかもしれない者を、わざわざ按司の立場に引き立てたのか、と言うことです。

羽地という血筋

北山初代の王である怕尼芝と、三代目の王である攀安知は実は、同じ呼び名だったのではないかという説があります。これは、明が両者を区別するために、当て字を用いたのではないかと言われています。この二人の王の本当の呼び名は、「はねじ」であったと考えられているのです。

そして、この「はねじ」と呼ばれる血筋がもう一つ存在しているのです。それは、「羽地」の字が当てられており、この血筋は第二尚氏の分家として存在しています。

これは、偶然の一致だと考えることも出来るでしょう。しかし、第二尚氏の初代の王、尚円が攀安知の息子である虎寿金に、按司としての道を開いたのは事実です。

また、尚円の出身地は沖縄本島北西部にある島、伊是名(いぜな)島出身という事実もあります。北山王の支配地域であった伊是名島出身の王が、元北山王の息子を助けたと言うことは、どのようなことを意味するのでしょうか。そして、その王統に「羽地」という分家が存在しているのは、一体何を意味しているのでしょうか。

北山の支配層であった怕尼芝王統は、攀安知王の死によって途絶えたと考えられています。しかし、第二尚氏の動きを見ていると、もしかすると怕尼芝王統の血は琉球王府の中で生きていたのではないかと考えさせられはしないでしょうか。琉球統一の勝者は、尚巴志だったのでしょうか、それとも、実は攀安知だったのでしょうか。

まとめ

いかがだったでしょうか。沖縄の歴史の中には未だに解明されていないことが多く存在します。特に、琉球王朝成立前の歴史は神話に近いものがあります。攀安知という人物も、歴史書の中では滅亡までの記録が僅かにあるだけで、はっきりとしたことは判明していません。この様に、琉球王国の歴史は解明されていない謎と、それを解釈していくというロマンに溢れています。魅力的な琉球王国の歴史を、またお伝え出来ることを楽しみにしています。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次の記事:

前の記事:

参考サイト様

沖縄の地域調査 山北王の時代

https://yannaki.jp/hokuzaounojidai.html

美ら木家 沖縄の世界遺産〜今帰仁城跡〜

https://aia-naha.jp/okinawa-sekaiisan2/

レキオ島唄アッチャー 津波古に移住した北山王・攀安知の子孫、その3

http://rekioakiaki.blog.fc2.com/blog-entry-618.html?sp

コベルコ建設機械ニュース 歴史的建造物誕生の秘密を探る!今帰仁城跡[沖縄県]美ら海臨む兵どもが城の跡

https://www.kobelco-kenki.co.jp/connect/knews/vol241/monuments.html