灰吹法伝来と石見銀山の歴史

石見銀山・龍源寺間歩の写真 その他考察
石見銀山・龍源寺間歩

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権力者の欲求を満たす貴金属

銀という貴金属は古くから世界中の各国で高い価値を持ち、現代に至ってもその価値を保ち続けています。紀元前頃には採掘技術が未熟だったこともあり、国によっては銀の方が金よりも高い価値が付くことすらあり、特に古代エジプトでは金製品に銀メッキを施した宝飾品すらあったようです。金は自然金としてそのまま採取できるケースがあるため、採掘をしないとほぼ手に入らない銀より価値が低かったという、現代では考えられない価値の逆転が起きています。

砂金の写真
金は少量ですが砂金の状態でも採れます

採掘技術が進歩するにつれて絶対量の少ない金の価値がどんどん上がっていきますが、相変わらず銀は貴金属の中で高い地位を占め続けています。銀は見栄えが良いだけでなく比較的加工が容易なため、食器やアクセサリといった物品にも使用され、また流通貨幣として世界中で用いられていました。そしてその価値と輝きを伴った美しさに心を奪われたのか、権力者による銀山を巡る戦争も幾度となく起きています。

今回の記事では、一時期は世界でもトップクラスの銀産出量を誇った石見銀山、そして戦国時代に伝来した金や銀の精錬技術・灰吹法による影響をご説明したいと思います。

灰吹法伝来前の日本の事情

鎌倉時代末期に発見された石見銀山

鎌倉時代の末期頃、周防国(山口県東南部)の武士・大内弘幸が石見国(現在の島根県西部)を訪れた際に、菩薩の託宣によって純度の高い銀を発見したという謎の逸話が残されています。とは言えそんな都合の良いお告げなどあるわけもないので、たまたま見つけた、あるいはすでに小規模に採掘されていたところを武力制圧したものと思われます。いずれにせよ当時の技術力でも数千貫掘ったという記録があり、3000貫とすれば10トン(1貫=3.75キロ)を越える銀が採掘されていたことになります。

石見銀山の位置

その後鎌倉幕府の転覆で混乱があったためか、大内氏による採掘は一時的に中断されていました。ですが応仁の乱が終わって30年程経った戦国時代の真っ最中、博多の大商人・神谷寿貞によって石見銀山が再発見され、周防国を統治していた大内氏の支援で再開発が始まっています。

銀よりは安いけど銅より高い粗銅の輸出価格

室町幕府3代将軍・足利義満が始めた勘合貿易において、日本からの輸出品目の多くは粗銅となっていました。後に幕府主導の勘合貿易は廃れていきますが、それでも周防国の大内氏は私的に貿易を続けており、ここでもやはり多くの粗銅を輸出品として出していました。

この粗銅とは精錬する前の不純物を含んだ銅を指すのですが、なぜか日本の粗銅は明や朝鮮の商人に人気があり、他国の銅よりも高い値段で買い上げられていました。とは言え銅はいくら足掻いても銅ですので、「そんなことあるのか」という疑問が沸いてきますが、もちろんこの高い買取価格には明確な理由があります。

貴金属が多く含まれていた日本の粗銅

実は日本産の銅鉱石には銀や金が含まれることが多いのですが、当時の日本には貴金属を精錬する技術そのものがなかったため、貿易ではあくまで「銅」としての価値で取引されていました。つまり明らかにたっぷりと金を含んでいる銅鉱石だったとしても、当時の日本人は技術不足のために泣く泣く銅としての値段で売却していたという訳です。

大陸の商人達からしてみれば、買いそびれがないように銅よりはちょっと高く、そして金や銀にしては非常に安い値段で大量に日本から買い上げ、異常な程の利益(現代でも銀:銅は100:1くらいの価格差です)を稼ぎ出していました。まあその辺の事情は日本側もある程度分かっていたようですが、結局のところ抽出技術がないためどうしようもなく、むしろ「ちょっと高い値段で買ってもらってるし仕方ないかな」くらいの感覚だったのでしょう。

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貴金属の精錬法・灰吹法の伝来

渡来人によって伝来した灰吹法

やはり商人という人種は、お金が絡むことに関しては特に執着するものなのでしょうか。石見銀山の再開発を主導した神谷寿貞は、1533年に朝鮮から銀の抽出技術を知っている技師を呼び寄せました。するとこれまで粗銅としてポンポンと輸出していた物からも銀が抽出されるようになり、銀の産出量が一気に増加しています。

自然銀の写真
出る状態はまちまちですが、黒い部分が自然銀です

この石見の地に伝わった抽出技術は「灰吹法」と呼ばれ、徐々に全国の鉱山へと伝わっていきました。「灰吹法」が伝来して約50年後、1581年に石見国を統治していた毛利家の記録によれば、銅貨に換算して33,000貫分の価値の銀が採掘されたそうです。1581年といえば本能寺の変の前年であり、当時の毛利家は織田家の羽柴秀吉による猛攻を凌いでいる真っ最中でしたが、毛利家にとってこの戦いは石見銀山にも大きく助けられていたものと思われます。

石見銀山という金の成る木を巡る争い

尼子経久と大内義興の争奪戦

軍備や家臣への報酬など、戦国大名達にとってお金などいくらあっても足りないので、収入源の確保は最優先であり必要不可欠なものです。そんな中で効率良く銀や金を採掘できる鉱山があったのなら、手段を選ばず是が非でも確保したい土地だったでしょう。石見銀山は掘れば掘るほど銀が出てくる「金の成る木」、という訳で当然のごとく血で血を洗う争いの場と化しています。

「灰吹法」が伝来して4年後には、大内義興が統治していた石見国に出雲(鳥取県東部)の尼子経久が突如として侵攻、銀山を含む一部地域を占拠しました。その2年後には大内義興が奪還していますが、そのさらに2年後には尼子氏が再度奪い返すという、壮絶な争奪戦が繰り広げられています。この後も何度か戦いが起きていますがひとまず尼子氏の所有するところとなり、尼子氏は強力な資金源を得て大きく領土拡張に成功しています。

毛利元就と尼子晴久・義久の争奪戦

厳島の戦いで大内軍を木っ端微塵にした毛利元就が周防国を制圧すると、今度は尼子経久の跡を継いだ尼子晴久と毛利元就の間で争奪戦が始まっています。毛利軍は何度も攻勢を仕掛けますが、その都度分厚い守りに阻まれての惨敗を繰り返していました。ところが争奪戦の勝者となっていた尼子晴久が病死すると、急に毛利元就に追い風が吹き始めます。

尼子晴久の跡を継いだ尼子義久はまだ20歳そこそこと若かったためか、家臣からナメられるという戦国時代にありがちなトラブルが起きていました。こんな状態での戦争も難しいということで、室町幕府に仲介を依頼して毛利家との和議を図っています。ところが毛利元就はこの和議を逆手にとり、尼子義久に対して石見国に干渉しないよう条件を付けた上で和睦、尼子軍が撤退したところで和睦を無視してすぐに攻撃し、あっさりと石見銀山を手中に収めています。この出来事が引き金となって尼子家臣団は大きく動揺しますが、逆に毛利軍は資金源も得て攻勢を加速、4年後には広大な領土を誇った尼子氏を攻め滅ぼしています。

毛利元就のイラスト
「三矢の教え」でも有名な毛利元就さん

江戸時代前期の日本経済を支えた石見銀山

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり江戸幕府が成立すると、徳川家康は石見銀山に目を付けさらなる開発の手を加えました。鉱山がその気持ちに応えたのか産出量は増加し、1640年頃まで長いピークを迎えています。日本で産出される銀の中でも石見で採れたものは流通の際に、ソーマ銀(銀山のある大森の旧地名・「佐摩」に由来するとか)と呼ばれ区別されていました。このソーマ銀はポルトガルやオランダ・明国との交易で重要な輸出品目にされており、江戸幕府だけでなく日本経済を支える立役者となっています。

1650年を過ぎる頃からは段々と産出量が減少し、採掘できる場所が深くなり枯渇が近い状態になりました。それでも銅はまだまだ産出してはいたのですが、あまりに深くまで掘ってしまったため幾度となく地下水が出てきてしまい、コストの割に儲からないということで徐々に幕府の採掘熱が引いていきます。そして戊辰戦争が起こる2年前、第二次長州征討の際に長州藩の侵攻を食い止めることができず、江戸幕府は石見銀山の保有を諦め放棄しています。

第二次長州征伐の幕府軍
第二次長州征伐の幕府軍、すでにスーツ着てる人がいます

閉山後にはユネスコの世界遺産に

時は大きく下って昭和時代の第2次世界大戦中、日本政府は軍需物資調達の必要性から石見銀山の再開発が始まりました。ですが採掘が再開されてから2年後に坑道が水没してしまったことで、長きに渡って日本を潤してきた銀山はここで閉山とされています。その後も企業によってボーリング調査が行われたりもしたようなのですが、希望のある鉱脈はないと判断され現在に至っています。

銀山の周囲にある建造物や間歩(坑道の入り口)は、市や県・国によって文化財に指定され保護を受け続けてきました。1,967年には島根県から「大森銀山遺跡(大森は銀山がある場所の地名)」として県指定の史跡に認定され、その2年後には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定されています。そして2,007年には銀山周りの環境が破壊されずに保全されていたことが評価され、産業遺産としてはアジアで初となるユネスコの世界遺産に認定されています。

石見銀山周辺の町並みの写真
現代でも石見銀山付近には雰囲気のある町並みが

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