鎌倉時代の豆知識

鎌倉時代っぽい対決 その他考察

今回は鎌倉時代の、ちょっと細かい豆知識と筆者の考察をご紹介したいと思います。

「てつはう」について考察

元軍が用いた火薬兵器

学校の教科書にこんな文章が書かれていませんでしたか? 「元寇における元軍はてつはうという武器を用い、日本軍を苦しめた」といった文章です。

このモンゴル軍が使用したとされている「てつはう」という武器は、陶器や鉄の容器に火薬を詰め込んだだけの結構シンプルな爆弾です。使い方は導火線に火を点けてから敵に向かって投げ、爆音や爆風で相手を攻撃したり威嚇したりしていた訳ですね。ですがこの「てつはう」という武器は重さ4kg程もあったようで、特に体勢が不安定な馬上での使用は相当困難だったものと思われます。

こんなものは投げて使うのは無理がありそう

4kgの球状の物を戦闘の最中に馬に乗りながら敵に投げつける、なんてことを人生で体験する人はほぼいないでしょうが、想像しただけでもちょっと無理そうですよね。現代で大体同じ重さ・似た形の物を強いて挙げるならば、女子砲丸投げの砲丸の重さが約4kgということで、この競技では「てつはう」とほぼ同じ重さの物を投げていることになります。ちなみにこの女子砲丸投げの世界記録は旧ソ連のナタリア・リソフスカヤさんですが、このパワフルな女性は実に22.63mも飛ばした記録が残されています。

てつはうと同じ重さの砲丸を投げるナタリア・リソフスカヤさん
「てつはう」と同じ重さの砲丸を22メートル投げるナタリアさん

それに対して、鎌倉時代の和弓が現代と同性能かはわかりませんが、三十三間堂の通し矢では120m先の的を狙います。動いている的であればもっと射程は短くなるでしょうが、22mより短いことはないでしょう。

三十三間堂の通し矢

つまり女子オリンピック選手の最高峰クラスの力を持つ人でも、和弓の射程には遠く及ばないということです。元軍の兵が「てつはう」を取り出して投げようと構える頃には、ハリネズミのように矢が刺さっていたはずです。

という前提の元で使い方を考えた結果、「てつはう」は撤退の時に使うのではないかと考えました。幕府の兵が追撃してきている時に点火して真下に落とし、追いかけて来た兵が通過する頃に爆発する。これしかないというのが筆者の結論です。元軍の兵が全員オリンピック選手の何倍ものパワーがあったら、話はまた別になりますけどね。それはそれで非常に怖いです。

幕府という名称の由来

鎌倉時代に突然現れた武家政権の呼称

鎌倉時代に突如として武家政権が誕生していますが、ここまでの日本史には幕府という単語が一度たりとも出てきていません。「新時代の新しい政府の名称は……幕府です!」くらいの雑な登場ですよね。ですが困ったことに「幕府」という単語の響きには、ワイルド感があるのにスマートで、急に出てきたにも関わらず違和感が全くありません。とは言えこの単語は実のところ江戸時代の中期頃から使われ始めており、つまり実際に鎌倉時代や室町時代の人々は使ったことがない訳です。

中国の軍制に由来して名付けられました

そもそも「幕府」という単語自体が輸入モノであり、中国の軍制に由来する単語だったりします。中国の各王朝やその時々によっても制度に違いはあるのでしょうが、基本的に中国における「将軍」には「幕府」を設置する権限が付与されていました。この幕府とは軍隊を指揮する拠点のようなものですが、同時に遠征先における臨時の政治拠点という意味合いもあったりします。

つまり「臨時で設立された政治拠点」という意味を込めて、江戸時代の学者さんが「幕府」という名称を用い始めたという訳です。ですが江戸時代の天皇家は極めて影が薄いため、臨時どころかむしろ江戸幕府こそが王朝だった気がしますけどね。

「幕府」についての詳細はこちらからどうぞ。

源頼朝が鎌倉幕府を開いた理由

鎌倉幕府成立当初には、源頼朝は全国的な政権にするつもりはなかったのではないかと筆者は思っています。全国的な政権に育て上げたのは北条氏によるものであり、また承久の乱で朝廷側が墓穴を掘ってしまったことで、結果的に支配域が西日本にまで拡大しただけだったりします。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のために起こした承久の乱はこちらからどうぞ。

幕府成立時の頼朝は少なくとも平氏政権、そして源義仲がどのような末路を辿ったかを目の当たりにしていました。この2つの政権で共通していることと言えば、飛鳥時代以前のヤマト王権から続く中央政権に介入しようとしたことですね。

平清盛に始まった平氏政権は藤原道長に代表される摂関家と同様、自身の娘を天皇家に嫁がせ、外戚として朝廷内で権力を振るう道を選択しました。またその後武力オンリーでのし上がった木曽義仲ですが、こちらは朝廷の最重要案件である皇位継承問題にまで介入しています。朝廷に介入した者は、必ず朝廷の誘導で別の有力者に追われています。こういった事実を見ていた頼朝は、朝廷に関与されにくい場所で自分の政権を打ち立てたいと思っていたのではないでしょうか。

これは筆者の推測ではあるのですが、鎌倉幕府のモデルとしては奥州藤原氏だと考えています。朝廷に介入せず敬う姿勢を見せながらも、自分たちはほぼ独立国家を形成している状態ですね。

源頼朝がこういった自分の国を作ろうと考えていたかはわかりませんが、北条氏によって実際に作られ、そして結局は朝廷にまで介入し全国的に統治する機関にまで成長しています。

そして・・・朝廷に介入したものの末路は。

歴史は繰り返されますね。

源頼朝が征夷大将軍に就任した経緯

蝦夷討伐はしていないけど征夷大将軍

鎌倉幕府の創立者である源頼朝が征夷大将軍という官職を得たことで、これ以降の時代ではこの官職こそが「武士の棟梁」の証として扱われました。ところが「征夷大将軍」とは本来であれば蝦夷、つまり日本から見て異民族討伐に向かう者に対して与えられる将軍位だったりします。ですが源頼朝は役職名が本来意味している蝦夷討伐なんかしておらず、よくよく考えればこの役職が与えられる理由がわかりませんよね。

実は源頼朝は役職名なんか一切どうでもよかったようで、「将軍」という肩書だけ欲しかった、という逸話が残されています。その理由は一番上の見出しにてご説明していますが、将軍という肩書が朝廷から独立した政権を打ち立てるのにうってつけだったからです。つまり「将軍」の部分が付いていればOKだった訳ですが、そんな源頼朝でもただ一個だけ避けたい官職があったようです。

木曽義仲が任命されていた征東大将軍だけは却下

源頼朝は京都市中を荒らしていた木曽義仲を討伐したことで、後白河法皇を始めとする朝廷に受け入れられた経緯があります。その木曽義仲は在京中に「征東大将軍」という官職を得ていたのですが、源頼朝が平氏を討伐した後、最初は後白河法皇にこの官職を勧められたそうです。ですが源頼朝にとっての「征東大将軍」は滅ぼした相手が持っていた訳で、「あまりに縁起が悪すぎる!」として断固拒否したそうです。

その後あーでもないこーでもないで会議が続いた後、結局何の脈絡もない「征夷大将軍」という官職が与えられました。こんな経緯ではあるのですが、この「征夷大将軍」は江戸時代が終わるまで、武士の頂点に位置する人間のステータスとして扱われ続けています。

征夷大将軍についてはこちらからどうぞ。

まとめ

今回の記事では、筆者の妄想を混ぜ込んだ豆知識をご披露させて頂きました。

読んでくれた方には感謝の念にたえません。

次回の記事からは南北朝時代という、日本で一回限りの朝廷が分裂した時代についてご説明いたします。


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