時代別

安土桃山時代

安土桃山時代4 織田信長は天下統一を目の前にして明智光秀の前に散る | 本能寺の変

甲州征伐で宿敵・武田勝頼を滅ぼし、織田信長は天下統一へ大きく踏み出しています。信長は武田家討伐後には徳川家康を招いて祝宴をあげた後、中国地方攻略にあたっていた羽柴秀吉の救援に向かおうとしますが、京都で宿泊していたところで明智光秀が謀反、「本能寺の変」で志半ばにして倒れます。
安土桃山時代

安土桃山時代3 織田信長の甲州征伐

長篠の戦い以降の武田勝頼は、徳川家康からの攻撃を受け続け家臣団の統率すらままならない状態となっていました。そんな中で木曽義昌の寝返りを皮切りに、滝川一益や河尻秀隆を擁する織田信忠の軍団が一気に信濃国になだれ込みます。家老の小山田信茂にまで裏切られた武田勝頼は、天目山へと逃げ込み、長男・信勝とともに自害して果てることになります。
安土桃山時代

安土桃山時代2 決着! 本願寺石山合戦

織田信長が京都上洛を果たすと、三好家と親密だった本願寺顕如率いる浄土真宗勢力との抗争が始まります。毛利輝元と協力した本願寺顕如は反織田の兵を挙げますが、天王寺合戦や第一次木津川口海戦で一進一退の戦いを繰り広げた後、第二次木津川口海戦で鉄甲船に完敗、ついに織田家に降伏します。
戦国時代

天下三名槍 | 日本号・蜻蛉切・御手杵について

今回の記事では、母里太兵衛の日本号・本多忠勝の蜻蛉切・結城秀康の御手杵(おてぎね)、という3つの名槍についてご紹介いたします。 3本の槍はどれも室町時代から戦国時代に作られていますが、天下三名槍という言葉自体は江戸時代に入って使われ始めています。「西の日本号、東の御手杵」と並び称されていたところにいつの間にか蜻蛉切が入り、天下三名槍と呼ばれるようになっています。
戦国時代

徳川四天王 本多忠勝 | 徳川家康に尽くした天下無双の忠義者

生涯で57回もの戦争に参加した本多忠勝は、その全ての戦闘でカスリ傷の一つすら負わなかったといいます。だったら後ろで指揮だけして兵だけを戦わせていたのでは?なんて思ってしまいますが、むしろ忠勝は「一騎駆け」や少数の兵での突撃というかなりの無茶もしており、スタイル的にはどちらかと言えば猪武者でしょう。
安土桃山時代

表裏比興の者 真田昌幸 | 徳川家康と戦い続けた謀将

軍略家として名高い真田昌幸は、豊臣秀吉配下の石田三成に「表裏比興の者」という評価を受けています。「比興」とは他の物に例えた面白い表現を意味しますが、実は「卑怯」という意味も持っています。長篠の戦いで兄を失い急に家督を相続した真田昌幸は、徳川家との2度の上田合戦にて完璧とも言える大勝利を収めます。
安土桃山時代

「日本史」の編纂者 ルイス・フロイス | 織田信長の記録を残したイエズス会宣教師

ポルトガル人のキリスト教イエズス修道会の司祭となったルイス・フロイスは、フランシスコ・ザビエルの後を追い日本への上陸を果たしました。そこでルイス・フロイスは、京都へ上洛した織田信長からキリスト教布教の許可を受け、布教活動を行っていきます。ここである程度の成果を得たルイス・フロイスは後進の宣教師のために資料作りを行いますが、結果的に作られた記録は日本の戦国時代を綴った歴史書の様相を呈します。この記録は後に「日本史」というタイトルで出版され、まさに日本史を知る上で現代においても貴重な資料となっています。
その他考察

日本中世までの騎馬隊事情

古事記にも馬に関する記述があるなど、日本でも古代から馬は生活や軍事的に利用されていました。ハニワにも馬に鞍などが取り付けられているものが多く、また馬装品そのものが出土するなど、古墳が建造される頃にはすでに騎馬隊の活用がかなり広く普及していました。ここで生産された馬は騎乗馬として騎馬隊に用いられる他、情報の通信手段や農耕用にも使われています。
安土桃山時代

安土桃山時代1 長篠の戦い | 騎馬の武田勝頼と鉄砲の織田信長

長篠の戦いは元々徳川家と武田家の間に国境間の争いがあった中で、奥平貞昌の寝返りがキッカケとなって起きています。武田勝頼は徳川家康と寝返った松平貞昌を攻撃するために徳川領に侵攻していますが、徳川家の同盟相手・織田信長が参入してきたことで一気に決戦ムードが漂います。
戦国時代

戦国時代 浅井三姉妹の末っ子 江与 | 徳川家光の母・明正天皇の祖母となった崇源院

江与は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の正室となり、3代将軍家光を産んでいます。さらに江与の娘であり、家光の妹ともなる和子という人物は天皇に嫁いでおり、お市の方や浅井長政の血統は江与や和子を通し、現代の天皇家にまで脈々と受け継がれています。