限りなく架空に近いアマミキヨの子孫・天孫氏

程順則の肖像 琉球のまとめ・その他記事
天孫氏論争に終止符を打った程順則

琉球開闢神の子・天孫氏

琉球神話ではアマミキヨという女神によって沖縄の島々が生み出されたとされています。そしてアマミキヨは天帝と呼ばれる高位の神から5人の子供を譲り受け、その5人はそれぞれ各身分の始祖となって子孫達に自身の職分を伝えたとされています。その5人の中で年長の男子だった「天孫」の子孫は王の身分を代々引き継いだとされ、この王統を指して「天孫氏王統」と呼ばれます。

ですがこの天孫氏王統の存在自体がかなり微妙で、実際にあったか無かったかという議論の前に、「多分ない!」くらいまで言えてしまう程に記録がアヤフヤです。次の王統を樹立する「舜天王朝」に替わるまで王を務めたとされていますが、なぜか舜天王が初代国王として扱われている資料があるなど、記録されている文書によってはかなり散々な扱いを受けています。

今回の記事は「天孫氏を歴史として認めるには話の作りがかなり雑」という前提を持ちながら、考察とチャチャを入れながら琉球神話の続きをご説明したいと思います。執筆の際には沖縄にルーツをお持ちの方や現在もお住まいの方に失礼がないよう気を付けておりますが、無礼に当たる表現がありましたら何卒ご容赦いただけますようお願いします。許容しかねる表現などありましたら、コメントにてご指摘いただければできる限り迅速丁寧に対応いたします。

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天孫氏王統の成立と終焉

長い琉球統治と利勇の叛逆

琉球を開闢した女神・アマミキヨには、さらに高位の神・天帝から5人の子供が授けられていました。長男は国王、次男は按司、三男は農民、長女は最高神官、次女は巫女と、それぞれの身分を持つ人々の始祖となったと伝わっています。このうちの長男は自らを「天孫氏」と名乗り、国王となる血筋として代々その地位を受け継いだとされています。

ですが長い統治の中で一族の「徳」が衰えてゆき、多くの按司たちが王朝から離れ、政治も段々とままならなくなったと伝わっています。天孫氏王統25代目の王、大里思金松兼(うふざとぅうみかねまちがね、すごい名前です)は臣下であった利勇(りゆう)の手によって暗殺され、ここで天孫氏の王統は途絶えてしまいます。

悪が栄えた試しなし!

利勇は幼少の頃から大思金松兼に目を掛けられ、40代の後半には政治を全て任されるようになっていました。ですがひとたび権力を握った人間はより大きな力を求めるのか、利勇は主君である大思金松兼から王位を奪い取ろうと考え、毒を入れた酒を飲ませ殺害してしまいます。

そして自ら中山王を名乗った利勇でしたが、浦添の若き按司はその非道な行為を許すことはありませんでした。その按司の名は尊敦(そんとん)、後に琉球初の正式な中山国王・舜天王となる人物によって利勇は討伐され、妻子と共に自害する道を選びました。古今東西様々な王朝や政権が成立していますが、暗殺という手段で成立した場合にはすぐにクーデターで倒れるケースが非常に多く、この利勇のケースも例外ではありません。まさに、悪が栄えた試しなし!を地で行く物語の展開と言えるでしょう。こうして天孫氏から奪われた琉球の王朝は、舜天王によって新たな形で引き継がれたという流れになっています。

舜天王についてはこちらからどうぞ。

ここまではわかりやすい勧善懲悪劇で政権交代という、理解しやすく受け入れやすい話となっていますが、問題は「天孫氏」の設定がガバガバ過ぎることにあります。

天孫氏王統は真か幻か

あまりにも長過ぎる寿命と王朝維持期間

琉球王国公認の正式な歴史書となる「中山世鑑」・「中山世譜」には、「天孫氏」に関する記述が多く残されています。「中山世譜」によると天孫氏の統治は、乙丑(きのとうし)に始まって丙午(ひのえうま)で終わるまでの間とされており、年数にするとなんと1万7802年という途方も無い数字になります。この時点でかなり記録として危なそうな気もしますが、さらにこの年数を25代で乗り切ったとされており、もし本当であれば1世代で712年という驚異のご長寿さんだったことになります。

年齢的なハードルは「まだまだ神話に近い時代だから」で済ませたとしても、今度は年代という大きな壁が立ち塞がります。1万7802年前というと沖縄で言えば港川人という旧石器時代に生きた人々とカブってしまい、日本本土の縄文時代は今から約16,000年前からということで、縄文式土器が作られ始める1000年以上前から「王」という概念が存在したことになります。まあ当然そんな訳もない、ということで盛大に数字を盛ったかなんらかの意図による捏造と考えられています。

天孫氏の祭祀を巡る論争で決着

時は下って第二尚氏王統の時代、天孫氏というアヤフヤな先祖を祀るかどうかで大きな論争が起きています。1731年という日本本土では平和な江戸時代を謳歌している頃、琉球の歴代王を祀る寺院・崇元寺において、天孫氏への祭祀が行われていないことが問題となってしまいます。

その際に問いただされたのは琉球5偉人の1人であり、中国の歴史や文学・儒教に詳しい程順則(ていじゅんそく)でした。問い詰められた程順則は、

「天孫氏の頃に文字があったとは考えられない。なのに何故今にまで伝わっているのか?中国の王朝ですら長くても800年しか続かないのに、1万年続いた王朝があるとはとても信じ難い。記録と呼べるものがない天孫氏を祀ることは無用である」

というある意味普通でごもっともな反論を展開、結局天孫氏の祭祀は執り行わないということで決着しています。

琉球王府のお偉いさんによって完全否定された格好の天孫氏ですが、筆者はそれに近い人物・家系はあったのでは、と考えております。もちろん17,000年を越える王としての統治なんてあるわけもないですが、むしろ地域の顔役のような人は人間社会に必要だと思います。

ですので「天孫氏!王!」なんて大袈裟なものではなく、「代々地域を緩く仕切っているおっちゃんの家系」くらいのイメージでしょうか。人のためにあくせく頑張ってくれたからちょっと祀っとこう、くらいの人々の気持ちが琉球神話とリンクし、天孫氏王統という大げさな物語になった感じですね。

天孫氏によって作られたとされるもの

天孫氏はアマミキヨによって開かれた琉球の地を、三つの地域に分けたとされています。「国頭(くにがみ)」、「中頭(なかがみ)」、「島尻(しまじり)」の3つになりますが、これは琉球の中世における「三山」に当たります。「国頭」は「北山」に、「中頭」は「中山」に、「島尻」は「南山」としてそれぞれ王朝が誕生していますが、多少の差異はあれどほとんどそのまま現在の沖縄本島における「郡」にもなっています。これが天孫氏の業績!と言い切れないところがもどかしいですが、本当だとすれば天孫氏が沖縄県の郡区画を決めた、ということになります。

また家の建築法も伝えたとされる天孫氏は、中頭の地に初めて城を築いたとされています。その城は三山時代にも中山の城として使用されており、尚巴志によって琉球の統一王朝が樹立した際に改築され、「首里城」という名で王府が置かれるようになっています。存在自体があったかなかったか不明な天孫氏ではありますが、首里城は幾度とない火災焼失を繰り返しながらその都度見事な姿を取り戻しています。

首里城の写真
2019年に焼失する前の首里城

琉球初の統一王朝を打ち立てた尚巴志についてはこちらからどうぞ。

琉球開闢の女神・アマミキヨについてはこちらからどうぞ。

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天孫氏の参考サイト様

古琉球/統一王朝の成立 神話と伝説の王統

http://rca.open.ed.jp/history/story/epoch2/toitu_4.html

目からウロコの琉球・沖縄史 伝説の王は実在したのか

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2010/07/post-2e25.html

沖縄の歴史 舜天・英祖王統

http://www.okinawainfo.net/rekisi/syunten.htm

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