第一尚氏王統の終焉

尚円王の墓所となる玉陵 琉球の通史
尚円王の墓所・玉陵

終焉の時を迎えるまで

短期政権続きの第一尚氏王統

琉球王国という英雄・尚巴志に打ち立てられた国は、これまでその子孫たちによって代々受け継がれてきました。ですが出来たばかりの国はまだまだ不安定で未熟な部分を隠しきれず、どの王も様々な事情はあれど10年以下の在位期間で政権交代を余儀なくされています。王が替わるという国にとって大仕事が短いスパンで起き続けた結果、王府の力はズルズルと後退していくばかりでした。

そんな中、王府再建を託された尚泰久王が即位し一定の成果を挙げましたが、他の王と同様に在位期間は短く、わずか6年で次の世代に移行しています。そしてその息子である尚徳王は、第一尚氏王統の7代目の王として即位します。

尚巴志の打ち立てた王統はどうなってしまうのか、まずは6代目の王・尚泰久の代から見てみましょう。

早世した名君・尚泰久王

15世紀中頃の琉球王府の力は、内乱と繰り返される世代交代劇によって大きく落ち込んでいました。特に尚金福王の後継を巡って起こった「志魯・布里の乱」では、王府の象徴であった首里城が焼失、さらに両者が戦死するという結末で決着しています。この様な事件を経て、越来王子として要衝である越来を治めていた尚泰久は、権威の落ちた琉球王府を再興するという信念を持って国王に即位しました。

尚泰久は焼け崩れていた首里城を再建し、また船舶の出入りがしやすいよう港を整備、後に大交易時代と呼ばれる発展期の礎を築き上げています。さらには通貨として「大世通宝」を鋳造し、出回る貨幣の量を増やして経済発展を図っています。そうした中で起こった「護佐丸・阿麻和利の乱」により二大有力按司とされていた2人が滅亡、もはや王府に対抗し得る勢力を持つ人物がいなくなったことで、尚泰久の治世は安定するかと思われました。

大世通宝の写真
大世通宝

ですが琉球王国の復興を目指した尚泰久王も、「護佐丸・阿麻和利の乱」の2年後に病没してしまいます。結局尚泰久の治世も僅か6年程と短く、王府の安定した統治には至りませんでした。

尚徳王即位の背景と功績

尚泰久王の死後、後継として即位したのは第三王子であった尚徳王でした。尚徳王は長男である安次富金橋(あしとみかなはし)、次男の三津葉多武喜(みつばたぶき)を押し退けて即位していますが、その背景には「護佐丸・阿麻和利の乱」が関係しています。

尚徳王は側室の子供とである庶子であったとされていますが、2人の兄達は正室との間に生まれており、本来であれば身分としても3男という立ち位置からしても後継権を望むべくもありません。ですが尚徳王の正室は護佐丸の娘であったため、事情はあれど謀反人の血が流れる人物に王位を継がせるのはさすがにためらわれたのでしょう。また尚泰久王と長男、次男は折り合いが悪かったと言われており、そのことが影響していたのではないかとも考えられています。

護佐丸・阿麻和利の乱についてはこちらからどうぞ。

いずれにせよ、尚徳王は21歳という若さで父・尚泰久王の後を継ぎ、7代目の国王に就任しています。

尚徳王の功績

尚徳王は、1461年に第7代国王として即位しています。尚徳王は王府の正史『球陽』においては暴虐な王として描かれており、血気盛んで武芸を好んでいたとされています。ですが尚泰久が打ち立てた政策を引き継ぎ、琉球王国の発展に寄与しています。

その若く血気盛んな尚徳王が持つ功績として有名なものが、「喜界島征伐」です。自ら2000人程の兵を率いて、数年間に渡り貢納を怠った喜界島に攻め込みました。島の軍勢の堅い守りに手こずったものの、最終的には喜界島を制圧し国内統治の強化に成功しています。

喜界島にあるガジュマルの木
喜界島にあるガジュマルの木

また尚泰久王と同様に、仏教信仰に厚い人物であったと言います。特に尚泰久王時代に建立された寺院である天界寺、そして新たに建築した大宝殿は、後に明国の冊封使として琉球を訪れた陳侃(ちんかん)に、その壮麗さを褒め称えられる規模の寺院が建造されています。

また、尚徳王は父と同様に交易にも力を入れていました。明国への朝貢はもちろんのこと、室町幕府8代将軍・足利義政に使節を送り、また朝鮮へはオウムや孔雀など贈り物で関係を保ち、返礼に『方冊蔵経(ほうさつぞうきょう/仏教の経典)を授けられるなど、既存の交易国との関係強化に努めています。またマレーシアのマラッカへ使者を派遣して、交易範囲を拡大することにも成功しています。尚泰久王時代に作られた貨幣である「大世通宝」のように、「世高通宝(せだかつうほう)」を発行して流通する貨幣を増やし経済発展に寄与しました。

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第一尚氏王統の終焉

暴虐の王・尚徳王の突然死

琉球王国発展のために尽くした尚徳王という人物は、正史である『球陽』において、暴虐で傲慢、家臣の意見にも耳を貸さない王であったと酷評されています。若くして王の座に就いたことでプレッシャーを感じてしまい、ムキになって政策を推し進めた結果なのかもしれません。尚泰久王の頃から重臣として仕えていた金丸(かなまる/後の尚円王)は、尚徳王の強引な態度に反発し、激しく対立したと言われています。日を追うごとに尚徳王の暴虐ぶりは増していき、遂には罪のない民を手に掛けるなどの暴挙に及び、これを見かねた金丸は隠居してしまいます。

金丸が隠居してから約1年が経ったある日、尚徳王は29歳という若さで突然の死を迎えています。その死の原因は未だに分かっていませんが、幾つか説がありますのでご紹介したいと思います。

第一の説としては最もありそうというか正統派な、金丸や他の家臣たちによる暗殺説です。暴君と化していた尚徳王の存在に、金丸が危機感を覚え暗殺したというものや、金丸を次期国王に推す家臣たちにより毒殺されたというものです。「球陽」という歴史書で尚徳王が悪役として描かれている点(=暴力に訴えた金丸を正当化するため)でも、かなり可能性は高い気がします。

次に挙げられるのがちょっとロマンチックな物語で、久高島のノロ(公的な神事・祭事を司る神女)に恋をした尚徳王が、久高島滞在中に首都・首里でクーデターが起こったというものです。この説によればクーデターの一報を聞いた尚徳王は、海に身を投げて自ら命を絶ったと伝わっています。

金丸(=尚円王)の即位

どの説が真実であるかは分かりませんが、結局尚徳王も在位8年という期間で亡くなっています。この時尚徳王には幼い子供がいましたが、相次ぐ短期での政権交代の後を任せるのは難しいと重臣達は判断し、尚泰久王の頃から側近として仕え続けていた金丸が王位に就くことに決定しました。残った王族となる尚徳王の王妃と息子は後のトラブルを回避するため、金丸達重臣達によって敢え無く命を奪われてしまいます。

こうして、第一尚氏王統は滅び、家臣たちは新しい王として金丸を首里城に迎えたのです。金丸は王に即位すると尚円と名乗っており、この尚円王から始まる新たな琉球王国の王統を「第二尚氏王統」と呼びます。敢えて国名を変えなかったのは、国内の混乱や外交関係に配慮した結果なのでしょうか。ともあれ尚巴志によって成立した第一尚氏王統が64年間という短い期間であったのに対し、第二尚氏王統は尚円王即位から410年に渡り、琉球王国を治めていくことになります。

第二尚氏王統の創始者・尚円王(金丸)
第二尚氏王統の創始者・尚円王(金丸)

まとめ

金丸という人物は伊是名島出身の農民の出身とされており、身分からすれば王位に就くどころか政界入りすら夢のまた夢だったでしょう。金丸は伊是名島を離れてからも各地を点々としながら最後に首里に辿り着き、即位前の尚泰久に抜擢されて凄まじい昇進を遂げています。尚徳王の謎の死に関連している可能性もありますが、農民の身分から国王にまで昇りつめたという物語は、日本本土の豊臣秀吉にも比肩する出世劇でしょう。

琉球の歴史は、皆さんにとっては中々学ぶことがないかもしれません。その様な中で、本記事を通して琉球の歴史に少しでも興味を持って頂けたら幸いです。最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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第一尚氏王統の終焉・参考サイト様

レキオ・島唄アッチャー 上間・識名と縁が深かった尚徳王

http://rekioakiaki.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-6fb2-1.html

「九州・沖縄 ぐるっと探訪」 沖縄県南城市玉城「百十踏揚と三津葉多武喜の墓」

https://blog.goo.ne.jp/peaceorange/e/d174b4f6f70f13973f69102a8d8162ea

沖縄放浪日記 南城市玉城當山にある尚泰久王の長男と次男が居住していた2つのグスク跡☆

https://oki-night.blogspot.com/2018/08/2.html

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