琉球王国再興を託された男・尚泰久王の事績

泰久が治めた越来城 琉球史
泰久が治めた越来城

尚巴志に次ぐ存在感を放つ尚泰久

琉球王朝の王と聞いて真っ先に誰が思い浮かびますか?おそらく、直ぐ頭に浮かぶのは、二代目の王、尚巴志王でしょう。琉球史を少しでもかじった事のある方なら、尚円王や尚真王などの名前も出て来るかも知れません。

しかし、第一尚氏王統に限って言うならば、尚巴志に次いで存在感が大きいのは尚泰久王です。彼が王位についた頃、琉球王府は大きな危機に直面していたからです。その様な状況の中、彼は王府の再興に尽くした事で有名のです。今回は彼の事績を追いながら、尚泰久王という人物を見ていきたいと思います。

大交易時代のリーダーとして

越来王子から第六代国王に

尚泰久は、1415年、二代目の国王・尚巴志の七男(五男という説もあり)として生まれました。彼が21歳の時、父である尚巴志から北山攻略の拠点とするため、越来(ごえく/沖縄県中部の都市、沖縄市の地域)間切を与えられます。越来間切は農地が豊かで、北山地域と首里を結ぶ交通の要所となっていました。

彼は、この地を約20年間治めていたことから越来王子と呼ばれています。また、この間に西の読谷山には建国の英雄・護佐丸が、東の勝連半島には新興勢力である阿麻和利が城を構え、政治的な緊張感の漂う地域となっていきました。

そんな中、尚泰久は海外貿易を積極的に行うことで越来の地で力を伸ばしていったとされています。その当時の有力な按司に挟まれながら、越来間切を発展させた統治能力は、その後の彼の王としての資質を見ることが出来るのではないでしょうか。

そして、尚泰久が38歳の時に運命の歯車が動き出します。尚金福王が死去すると、王位を巡って王の子である尚志魯と、王弟である尚布里が対立し、内戦へと発展してしまいます(志魯・布里の乱)。この内乱は、短い間に代替わりが続き、影響力が弱まりつつあった王府にとって追い討ちとなってしまいます。この内乱により、王府の象徴的な城であった首里城が焼失し、最終的には、志魯、布里の両名が戦死してしまったのです。

そこで、白羽の矢が立ったのが、越来間切という要所を上手く治めていた尚泰久でした。彼は、最大の国難の時期に六代目の王として即位します。琉球王国再興のため、尚泰久は手初めに首里城の再建に着手します。

首里城再建と大交易時代

六代目の王に即位した尚泰久でしたが、首里の地には王府の象徴である首里城は無く、ただ焼け野原が広がる光景があるだけでした。尚泰久王は、まず焼失してしまった王府の象徴を再建することから着手します。

尚泰久は、首里城を格調高いものとして再建し、王権の再興の象徴としようとしたと伝わります。彼は、尚巴志時代の瓦葺き(赤瓦ではない)の屋根では無く、錫張りの赤い板を用いた屋根の首里城を再建しました。その美しさは、尚泰久の思惑通り王権再興のシンボルと呼ぶのに相応しいものでした。

更に、尚泰久王は越来王子時代から得意としてきた貿易に力を入れることになります。もともと、尚巴志時代から貿易重視路線を採っていましたが、尚泰久王はこれ引き継ぎ、更に発展させることにしたのです。当時の琉球は、中国への朝貢をはじめ、日本や朝鮮との交易を行っていました。更には、真南蛮(まなばん/東南アジア諸国)にまで貿易船を繰り出し、盛んな往来が行われ、中継貿易の拠点として発展していきました。

この大交易時代と呼ばれる、尚泰久王時代の琉球の発展の背景としては、朝貢を行っていた明王朝の海洋政策にあったとされています。明王朝は、海禁政策と呼ばれる朝貢国に対して交易の利を与える政策を採っていたため、朝貢国は朝貢品以上の利益を得ることが出来ていたのです。

こうして尚泰久王は、首里城の再建、大交易時代と呼ばれる貿易による経済発展の時代を築き上げました。琉球王府の再興という重責を担って即位した彼は、見事にそれを成し遂げたのです。

尚泰久王の素顔と側近の存在

熱心な仏教徒としての側面

尚泰久王の事績として、首里城再建、貿易による経済発展と共に挙げられるのが、仏教の普及への多大な貢献です。

尚泰久王は在位期間中に、広厳寺(こうごんじ)や普門禅寺(ふもんぜんじ)等、7つの寺院を建立し、23口もの梵鐘(ぼんしょう)を寄進しています。彼の仏教への信仰心が、相当に厚かったことをうかがい知ることが出来ます。

梵鐘の中でも、特に有名なのが首里城正殿に掲げられた「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」です。琉球王国の貿易による経済発展の様子を文言に折り込み、「世界の架け橋」としての自負と気概を示したものでした。

当時、仏教は日本の武家社会において重んじらており、僧は最先端の知識人として見られていました。その様な実利も相まって、琉球王家や士族の間でも仏教や僧は重宝されていたとされます。しかし、尚泰久王の仏教奨励の思いは、実利を求めただけのものとは考えられません。彼は、当時琉球を訪れていた南禅寺派の高僧・芥隠(かいいん)禅師に学び、仏教に帰依したと言われています。

尚泰久王はなぜ、そこまで仏教にのめり込んでいったのでしょうか。彼の在位前から、琉球は混乱が続いていました。更に彼の在位中には、「護佐丸・阿麻和利の乱」が起こる等、当時の琉球は安定した国家とは言えない状況でした。その様な中、王府の再興という重責や、身内で争う醜さを眼前にした彼は、心の救済を仏教に求めたのではないでしょうか。

尚泰久王の側近、金丸という男

尚泰久王には、越来王子時代から仕える金丸(かなまる)という有能な人物がいました。彼は、伊是名島(いぜなじま/沖縄本島北西部の島)出身の農民の子供だったと伝えられています。この金丸が越来間切にいた頃、尚泰久王がその才能を見出して召抱えたのです。

尚泰久王は、金丸を常にそばに置いて意見を求め、絶大な信頼を置いていたと言います。また、尚泰久王と金丸は同い年で、主従関係というよりは「同志」という関係に近かったと考えられています。

この頭脳明晰な家臣である金丸を、尚泰久王は越来王子時代に先代の王である尚金福王に推挙し、実際に役人として登用されています。その間に金丸は、一気に頭角を表すと高級官僚にまで出世しました。そして、尚泰久王が即位すると更に重用される様になります。

その後、二人の有力な按司が琉球王府に対して反乱を企てたとされる、「護佐丸・阿麻和利の乱」が勃発します。正史においては、この乱は阿麻和利の陰謀だとされています。しかし、この二人の有力按司には、ある共通点がありました。それは、貿易によって経済発展を遂げていたということです。奇しくも、琉球王府も大交易時代という繁栄期を迎えつつある頃のことです。

もし、尚泰久王の側近で頭脳明晰な金丸が、琉球王府の統治体制をより強固にしようと考えていたとしたら、この反乱は少し様相が変わってくるのではないでしょうか。つまり、王府は有力按司である護佐丸、阿麻和利両名が目障りになっていたのではないでしょうか。特に護佐丸は琉球王国建国の英雄で、按司たちからの人望も厚い人物でした。その英雄の存在は、琉球王府にとって、阿麻和利という新興勢力よりも危険だと考えられはしないでしょうか。

そこで、金丸は同志として、尚泰久王に琉球王府の基盤を固める策として、護佐丸と阿麻和利を争わせる様に差し向けたと考えることも出来るのではないでしょうか。

まとめ

尚泰久王は、琉球王国が大いに乱れていた時期に即位した王でした。その乱れを治め、王府の再興という重責を担い、見事にその責を果たした偉大な王であったことは間違いないでしょう。更には、大交易時代という経済発展を迎え、琉球を発展させたことも忘れてはなりません。しかし、実際のところ、沖縄でも彼の存在を知っている人は決して多くはありません。今回の記事を通じて、尚泰久王という琉球発展の礎を築いた人物について知って頂けたなら幸いです。

さて、この後、琉球王国には大きな事件が待ち受けています。それは、尚泰久王の側近であった金丸が大いに関係しています。どの様な事件が起こったのかは、また次回ご紹介させていただきたいと思います。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回記事:

尚泰久王の事績・参考サイト様

琉球王国・沖縄の歴史を学ぼう 琉球王国の大交易時代とは?終わりは?

https://www.ryukyu-history.com/ryukyu-history/post-326

研究ノート 首里城正殿の屋根変遷 石井龍太

https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-18801536-1606.pdf

尚泰久王と仏教文化

https://www.pref.okinawa.jp/edu/bunkazai/bunka/bunkazaizukan/minbunpdf/documents/2019-03-04-01.pdf

沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道 寄り道編・沖縄の仏教事情雑記録 ■その5.芥隠禅師の渡来で仏教が興隆する。

https://17020526.at.webry.info/202107/article_7.html