名君と暴君の跡を継ぐ者 | 尚円金丸物語②

尚円金丸の肖像 琉球史
第二尚氏王統の創始者・尚円金丸の肖像

善悪不確かなれど大偉人・尚円金丸

前回は伊是名島出身の青年、金丸が島を追われながらも沖縄本島にたどり着き、後に琉球国王となる尚泰久王の後押しで出世を果たす姿を見てきました。しかし良きボスであり理解者である尚泰久王の急逝と、その息子である尚徳王との確執によって眼前に暗雲が立ち込めていきます。

自身を見出してくれた恩人の息子との対立に心を痛めた金丸は、王都・首里城を離れ隠居生活を送ります。ですが彼の能力と人徳は余人から放ったらかしにしてはもらえず、本人が望んでいたかは定かではありませんが、出世の道が途絶えることはありませんでした。20歳過ぎまで農民として働き続けていた金丸は、王朝の重臣という高い地位ですら収まりきらず、琉球王国という新興国の王位へと駆け上がることになります。このことはただの出世物語として上出来ではありますが、見る角度によってはクーデターによる王位簒奪劇としても受け取れてしまいます。

今回の記事では前回に引き続き、尚泰久王に仕え始めたところからお伝えしたいと思います。ただのお人好しが担ぎ上げられただけなのか、それとも深謀によって成し遂げられた偉業なのか、物語と共に考察を混じえながらご紹介いたします。

第二次尚氏王統が成立するまで

名君・尚泰久の死と暴君・尚徳王の即位

金丸が厚い信頼を得て御物城御鎖之側に就任してから僅か1年、琉球王府の復興ために尽くした尚泰久王が急逝してしまいます。これまでも歴代琉球国王は不思議なほど短期政権ばかりで、全ての王が10年以内に逝去しており、代替りが早すぎて王府の権威失墜を招いていました。そんな中で琉球王府の権威回復と発展にハリキって尽力していた尚泰久王までが、即位6年余りで逝去してしまったのです。わずかに回復傾向にあった琉球王国でしたが、次に即位したのが21歳の武芸を愛する血気盛んな若者・尚徳王でした。

尚徳王は即位した当初、尚泰久王と同様に政治の重要事項は金丸に相談して決めていたと言われています。しかし21歳という若い王はこの慣例に窮屈さを覚えたのでしょうか、次第に金丸に指示を仰がなくてはいけない状況に不満を持つようになります。それでもしばらくはお互いに上手くやっていたようなのですが、尚徳王による「喜界島征伐」によって水面下の対立が表面化することになります。

何事も率先して動きたい尚徳王は、自らが先頭に立ち喜界島へ渡ることを主張しました。ですが重臣の立場にいる金丸からすれば、王自らが先陣に立つなんて以ての外、という当然すぎる意見を述べてこれに反対します。しかし動きたくてたまらない尚徳王は金丸の意見に猛反発、そして自ら2000名余りの兵を率いて喜界島へ攻め入り、見事に制圧して首里城への凱旋を果たしました。この結果に自信を得てしまった尚徳王はその後は金丸の意見を半ば無視、傍若無人で横暴な振る舞いをするようになってしまいます。

南国感あふれる現代の喜界島

この尚徳王の振る舞いは金丸に、尚金福王から三代に渡って尽くしてきた琉球王府から離れ、隠居を決意させるには十分だったのでしょう。金丸は王朝内で築き上げた全ての職を辞任、自分の領土である内間へと帰って行きました。

クーデター勃発から尚円王即位へ

尚徳王に見切りをつけ王府を去った金丸でしたが、しばらくは穏やかな隠遁生活を送っていたのでしょうか。ですが不安定な琉球王朝は経済的にも低空飛行を続けただけでなく、金丸が王府を辞して僅か1年後には尚徳王が謎の死を迎えています。その死因には諸説ありますが29歳という若さでの死であり、やはり即位してから8年という短い治世で王位が交代することになります。

王府は若き王の突然の死で大混乱に陥りますが、法司(ほうし/琉球王国の役職。国王の補佐を務める)たちが尚徳王の幼い子を大急ぎで後継者に立て、即位の式典を執り行おうしました。そんなバタバタした状況の王府に白髪の老人がどこからともなく現れると、いかに尚徳王の政治が悪政だったかを高らかに叫び、かつて尚泰久王の側近であり政治の中枢にいた金丸こそが次の国王に相応しい、という大演説が行われました。そこに集まっていた群臣たちはその老人の演説に賛同し、式典を執り行おうとしていた法司と尚徳王の子どもを追放し、王府内を武力制圧してしまいます。こうして王府の家臣たちによるクーデターが起こり、尚思紹・尚巴志親子が作り上げた第一尚氏王統は途切れることになります。

急に老人が現れるって警備ガバガバですよね・・。

王府を制圧した家臣たちは新たな王を迎えるため、内間の地で隠居生活を送る金丸の元へ出向きました。しかし金丸はこの申し出を固辞、恩ある尚泰久王の子・尚徳王の不幸に乗じて王位に就くことに気が咎めたのかもしれません。ですが家臣たちの再三に渡る説得により、ついに金丸は王位を継ぐことを決意し首里城へと赴きます。その意図は伝わってはいないのですが、金丸は尚徳王の跡継ぎであることを強調し、「尚」姓を受け継ぐ「尚円」と名乗っています。ここに一介の農夫から、琉球王国の王へと上り詰めた「尚円王」が誕生したのです。

琉球王朝目線での第一尚氏王統終焉の記事はこちらからどうぞ。

尚円金丸の人物像考察

金丸こそがクーデター首謀者?

第一次尚氏王統に終止符が打たれたのはあくまでクーデターによるものであり、その後家臣団の招きに応じて金丸が即位したという流れになっています。この筋書きは琉球王国の成り立ちと歴史を記した「球陽」という書物に記載されていますが、「暴君に失望して隠居→知らないうちにクーデター→招かれて仕方なく国王」という流れはあまりに金丸にとって都合が良すぎるため、本人が描いたシナリオだったのでは説もしっかり存在しています。特に突然老人が王府に出現し叫びだすという、ある種のホラー展開が当たり前のように盛り込まれている点も胡散臭さ満点です。第二尚氏王統の正当性を主張するために尚徳王を悪政を行った暴君として描き、そこで仕方なく金丸が王位に就きましたよ、と対照的に描くことでイメージアップを図る手法ですね。この手法は古今東西世界中で用いられている方法であり、お隣の中国でも同様に毎回こじつけじみた新王朝の正当化が行われています。

もちろんこの説も仮説であり、あくまで推論でしかありません。ただしクーデターが発生したことで第一尚氏王統は滅び、血統的には全く別となる第二尚氏王統が成立していることは確かです。王都で反逆が起きている間、金丸は以前に仕えた君主を心配していたのでしょうか。それともクーデターの陰の首謀者として、火の手が上がる王都・首里をほくそ笑みながら眺めていたのでしょうか。我々現代人がその答えを知ることはできませんが、この王都陥落劇から不思議な程スムーズに第二尚氏王統は始まっています。

第一尚氏王統と第二尚氏王統の意味深な共通点

最後に、2つの琉球王朝の創始者にまつわるお話で締めとさせていただきます。

第一尚氏王統の尚思紹・尚巴志親子と、第二尚氏王統の祖・尚円金丸にはある共通点があります。そしてこの共通点は、日本本土の歴史にも関わっている可能性が薄っすらとあります。尚巴志の祖父・鮫川大主(さめかわうふぬし)、そして尚円金丸という大成功者も、「伊平屋伊是名諸島」から沖縄本島へ逃げて来ているということです。

琉球王朝の始祖?源為義

これが沖縄の南方の島だとすれば、偶然かな?、という気もしてしまいますが、北方の島となるとちょっと話が変わってきます。それは「南走平家(なんそうへいけ/源氏に敗れた平家が琉球へ逃れてきたとするもの)」という言葉がまことしやかに存在しており、また源為朝が琉球王の始祖であるとする伝説が存在しています。

当時の琉球の文化や技術はそこまで進歩していたわけではなく、古くから大陸と国交のあった日本本土からはかなり遅れている状態でした。もし最新の技術と知識を携え、鎧兜に刀を持ったゴリゴリの武士が、琉球の北方にやって来て住み着いていたとしたらどうでしょうか。その綺羅びやかな出で立ちと聡明さに住民たちが驚き、尊敬するようになったとしてもおかしくはない気がします。そしてそれぞれ琉球王朝を作り上げた尚巴志や尚円金丸には、当時の琉球の人々より優れた知恵や知識を持っていたとされています。

この説はあくまで推論の域を出ませんが、そうだとすれば第一王統が源為義、第二王統が平氏ということになるのでしょうか。とすれば本土から離れた琉球の地ですら源氏と平氏の権力闘争が行われ、源平交代説が成り立っていることになります。この説は仮説の上に成り立っている仮説ですので信憑性はかなり薄いですが、もしそうだったとするなら源氏と平氏の飽くなき闘争心に拍手するしかありませんね。

まとめ

日本本土から遠く離れた沖縄の地にも、豊臣秀吉と同じく農民から天下を取った人物がいたことを知っていただけたでしょうか。その聡明な頭脳と、良き理解者の存在、そして強運によって、金丸はあっという間に王位に就き、尚円王となりました。第二尚氏王統は400年以上に渡って琉球王国を治め、沖縄の文化と経済をリードし続けることになります。

次回も、琉球史の面白さを気付いていただけるようなお話をさせていただきたいと思っています。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

前の記事:

尚円金丸物語②・参考サイト様

がじゅまるの樹の下で。 金丸はなぜ“尚”円王になったのか

https://blog.goo.ne.jp/wa_gocoro/e/a0f0459edb4ad0b9c41992517585e3c0

沖縄移住ブログ 琉球王朝時代には百姓から成りあがった国王がいた

https://www.nakame-arena.com/history/359

沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道 寄り道編・南走平家が琉球に舜天王統を建てる。

https://17020526.at.webry.info/202104/article_3.html